開拓初期:幾春別川流域-交通2【札幌開発建設部】治水100年
石狩川流域誌 支川編
開拓初期(明治初期~明治42年頃) 幾春別川流域 交通
泥炭地を開削した峰延道路
上川道路の支線で明治20年に開通した、「月形~峰延(美唄)間」道路は、通称「峰延道路」「樺戸街道」などと呼ばれ、とくにひどい泥炭地の難工事として今も語り継がれるほどだ(現・道道275号月形峰延線)。
一帯は沼のようにいつも水を湛えていたため、測量はほとんど船の上から行われ、九尺の測量竿が片手で簡単にさし込めるほどぬかるんでいた。この道路は、幌内炭鉱と農地の開発を進めるとともに、月形~三笠両集治監をむすぶ重要路線でもあり、両集治監から囚人が大量に投入されて工事が行われた。月形と美唄の両方から開削され、まず道路予定地の両脇に排水溝が掘られた。両端の排水溝は運河の役割も持ち、船を浮かべて木材を運んだ。運ばれた木材は路面に敷かれ、石狩川から土を運んでかぶせて踏み固められた。なお美唄川には板橋が架けられ、石狩川には渡船が置かれた。約5.5mの幅で一直線に14㎞の道路をつくっていくのだが、完成に1年もかかった。90日間で仮開通した上川道路「三笠~旭川間」と比べてみても、峰延道路の工事の困難さがわかる。
*参考資料/滝川市史
一帯は沼のようにいつも水を湛えていたため、測量はほとんど船の上から行われ、九尺の測量竿が片手で簡単にさし込めるほどぬかるんでいた。この道路は、幌内炭鉱と農地の開発を進めるとともに、月形~三笠両集治監をむすぶ重要路線でもあり、両集治監から囚人が大量に投入されて工事が行われた。月形と美唄の両方から開削され、まず道路予定地の両脇に排水溝が掘られた。両端の排水溝は運河の役割も持ち、船を浮かべて木材を運んだ。運ばれた木材は路面に敷かれ、石狩川から土を運んでかぶせて踏み固められた。なお美唄川には板橋が架けられ、石狩川には渡船が置かれた。約5.5mの幅で一直線に14㎞の道路をつくっていくのだが、完成に1年もかかった。90日間で仮開通した上川道路「三笠~旭川間」と比べてみても、峰延道路の工事の困難さがわかる。
*参考資料/滝川市史
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峰延道路開削之図
(滝川市史より)