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序章 竜馬の飛沫

序章 竜馬の飛沫

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 蝦夷地の本格的な開拓が始まったのは、周知のごとく明治時代。
2000年におよぶ歴史を有する日本で、東北6県と新潟県を加えた面積に等しい広大な土地がほとんど手つかずのまま残されていたことは奇跡に近いといわれている。 基本的に農業国家であった江戸時代、海を隔てた極寒の蝦夷地にそれほど魅力はなかったのであろう。(※1)

 しかし、明治維新後、国策は一変した。 失業した士族の救済、ロシアの侵攻に備えた屯田兵の創設、そして何より、欧米列強に対抗するため富国強兵の道を歩み始めた新政府にとって石炭、木材、硫黄などの無尽蔵とも思えた天然資源は、日本近代化の大きな原動力となった。また当時は、自由民権運動等とも絡んで、第2の日本・理想郷を創るような時代的気概があったらしい。
このため北海道は、官主導のかたちで拓殖計画がなされ、様々な問題をはらみながらも、札幌を中心に奥へ奥へと開発が進められていった。

 網走地方(※2)の開拓は約20年ほど遅れている。
記録によれば、明治12年、この地方の耕地は、わずか1.3haに過ぎない(※3)。99.999・・%が原野だった。明治8年に始まった屯田兵村も、現在の北見市、上湧別町に設置されたのは、制度そのものの末期に近い明治30年。開拓が本格化したのは、この屯田兵の入地からである。(※4)

 北見では、屯田兵の入地と前後して北光社農場がクンネップ原野の開拓に乗り出している。 高知県民の団体入植からなる北光社は1100ha余りを有し、稲の試作や製麻工場の導入、また北見への鉄道誘致など大きな役割を果たした開拓初期の大農場である。

 その発起人であり初代社長が坂本直寛。坂本竜馬の甥である。(※5)
直寛は、叔父の竜馬に憧れて育ったらしい。(※6)板垣退助などとともに活躍した自由民権運動の闘士であり、熱心なキリスト教徒でもあった。 彼は、当時、小作人が酷使され荒廃しつつあった資本家による農場経営を批判し、ついに自らがピューリタン的コミュニティとしての農場を建設するに至ったわけである。

 坂本竜馬が浪人集団による北海道開発計画を進めていたことは世上よく知られている。 幕末を縦横に駆け巡った風雲児のエネルギーが、死後数10年を経てなお、飛沫のようにこの最果ての原野に飛び散ったといえよう。(※7)

 その夢の飛沫がどんな軌跡をたどったのか、しばし想いを馳せてみようではないか。


(※1)江戸時代、北海道では農業(殊に稲作)はできないと思われていたらしい。
また、北海道の松前藩も漁業貿易や北方経由の中国貿易を独占し、農業に力を入れなかった。

(※2)以下、網走地方とは、北海道開発局・網走開発建設部(北海道オホーツク総合振興局)の所管区を指す。網走市、北見市、紋別市ほか14町1村を含み、面積はほぼ秋田県に等しい。

(※3)網走は6反(1反=約10a)、斜里1反、紋別の6反と当時の記録にある(合計1.3ha)。

(※4)屯田兵による開拓地は、明治36年で約5000ha。当時の網走地方全域における耕地面積は約11000haであるから、半分近くが屯田兵による開拓ということになる。

(※5)直寛(別名・坂本南海男)は、竜馬の姉・千鶴の次男。また、後に竜馬の兄・権平の養子になった。直寛は土佐自由民権運動の代表的理論家。キリスト教とスペンサーに傾倒し、現日本国憲法にも影響を与えたとされる立志社の「日本憲法見込案」も起草している。

(※6)直寛の兄・高松太郎(後に竜馬の跡継となる坂本直)も竜馬と同じ土佐勤皇党。直寛は、竜馬より19歳年下だが、後の文筆活動で才谷梅次郎(竜馬の変名・才谷梅太郎) を名乗るなど、竜馬の開明思想の強い影響を受けている。

(※7)直寛は「北海道開拓の父」のひとりにあげられ、竜馬の養子となった坂本直(高松太郎)も、北海道の開拓使判事となっている。余談ながら、開拓農業に従事しながら十勝平野の自然を描きつづけた坂本直行画伯は直寛の子息。

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