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石狩川治水史(1)

石狩川治水史(1)

  • 第1回石狩川治水史 前編
  • 水の道が人と物資を運んだ
  • ときに川は恐ろしい顔で襲いかかった
  • 治水にかかわる二つの思想がぶうかりあう
川と人の物語
北海道の各地を流れる川で、かつて、そして今、
川と人とはどんな歩みを続けてきたのでしょうか。
「川と人の物語」第1回目は、北海道一の大河、石狩川の歴史です。
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”水”の道が人と物資を運んだ -開拓時代の石狩川の水運-

小樽~石狩川~篠路~伏籠側~札幌
 明治のはじめ、北海道の開拓が始まったころ。たくさんの人びとが、新天地への希望と不安で胸をいっぱいにして、やって来た。本州の港を出た船の多くは、小樽港に着く。そこから開拓史が本府として定めた札幌までは、まだ道路ができていない。人びとは、小樽から汽船で石狩に向かい、河口から石狩川を上って篠路(しのろ)に達し、そこからさらに伏籠(ふしこ)川を上って札幌をめざした。
 本州から小樽を経て石狩に達する海の道、石狩から篠路を経て札幌に至る川の道、その両者をつないだ“水”の道が、後の北海道の礎となる開拓者たちを運んだのである。

汽船が運航できる水深を確保する
 河口から船に乗った人びとの眼に、当時の石狩川はどのように映っただろうか。
 開拓が始まる前の石狩川は、原野をなすがままに蛇行して流れていた。川縁には、巨木がうっそうと茂り、水面に濃い影を映している。ときおり聞こえる鳥や獣の声を除いては、あたりは静けさにつつまれていた。
   船は川水を蹴立てて、上流へ向かってゆく。しかし、川の中には流木が流れをさえぎっているところがあり、埋木や土砂で水深が浅くなっているところもあった。そういうところでは、船が立往生せざるをえない。流木を避けて、浅瀬に乗り上げてしまうことも少なくなかった。石狩河口から篠路まで、何事もなくスムーズに船を運航させるのは、難しかった。
 このため、このころの開拓使の河川事業は、もっぱら流木と埋木を除去し、土砂をさらい、小型汽船が運航できるだけの水深を確保することに当てられた。幌内炭鉱(現三笠市)の石炭を石狩川の水運で河口まで運び、さらに小樽まで輸送する計画が断念されたのも、十分な水深を確保できなかったからである。

明治の文明開化を象徴した外輸船
 人びとが石狩川づたいにしだいに開墾地を広げてから、川は大切な交通路となった。汽船が日用物資を運び、収穫された農産物を搬出して、人びとの生活を支えたのである。1881年(明治14)、樺戸(かばと)に集治監ができてから、二千人以上に及ぶ囚人の食糧や日用品を運ぶために、石狩川の水運はさらに盛んになった。
 このころ、幌内鉄道の陸運と石狩川の水運が交わる地点として発展したのが、江別である。汽船の船着場の周囲には、農産物を保管する倉庫や商店が軒を並べ、たいへんな賑わいだった。
江別川汽船発着場の写真
 パシャパシャ、パシャパシャという水音を立てて、見たこともない白い大きな船が姿を現すと、川岸の人びとから驚きの声がもれ、やがてそれは大きな歓声に代わった。
 1889年(明治22)、「上川丸」62tの就航。上川丸は鉄製の外輪船で、時速15kmで悠々と進む。外輪船は、中央部の外側に水車のような水かきをつけたもので、底が浅く平らになっているため、ふつうの気船のように流木でスクリューを傷めることがない。
藤原汽船部の外輸船上川丸
 その堂々と進む姿は、陸路の汽車と同じく、明治の文明開化を象徴するものだった。
 上川丸をはじめとする外輪船の航路は、主に江別から月形、江別から石狩までで、運航期間は4月から11月。毎年、秋の収穫時になると、雑穀を満載した数隻の淀川船を曳いて、外輪船がゆっくり石狩川を下ってゆく光景が見られた。


お問合せ先

建設部 河川計画課 企画係

  • 電話番号:011-709-2311(内線5327)
  • ファクシミリ: 011-709-2144

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