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明治43年頃-暮らし・社会1【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌

明治43年頃(明治43年~昭和34年頃) 6暮らし・社会

  • タイトル

町民の悲願だった夕張川新水路がまちを救った

洪水常襲地から安全なまちへ
  • 昭和11年、夕張川新水路の通水(「石狩川治水史」から) 昭和11年、夕張川新水路の通水(「石狩川治水史」から)
それまで千歳川に合流していた夕張川を、石狩川に直接流す『夕張川新水路』の工事は、大正11年に着工され昭和11年にようやく完成した(夕張川が合流する地点から下流は「江別川」と呼ばれていた)。この間も、夕張川流域はたびたび水害に見舞われていたため、完成間近に発生した昭和11年5月洪水では、南幌町と長沼町の住民が大勢でやってきて、夕張川と未完成の新水路の境界を強引に掘って、洪水を流れ込ませる出来事が起こった。それほど両町は水害に苦しめられてきた洪水常襲地で、夕張川新水路の完成は町民の悲願であった。
新水路が完成した両町には、水害の危険性が減ったことから入植者が増え、米の収穫量は飛躍的に増えていった。長沼町では、農家が増えたため小学校が新設されたほどだった(西長沼小学校)。
*参考資料/石狩川治水史、長沼町「ながぬま100年物語」より
暮らしの欧米化が進む
大正12年9月1日に関東大震災が発生し、わが国災害史上最大となる被害に上った。被災した東京は、道路拡張や区画整理など災害に強いまちづくりを進め、都市の近代化が進んだ。近代化は全国に普及し、暮らしや生産活動の欧米化が図られた。事務机やイスが普及し、店員は靴を履いて洋服を着るようになった。
企業家と労働者の区分もはっきりしはじめ、工場労働者のほかにサラリーマン階級も登場し、文化的な生活が生まれてきた。カフェやレストランが増え、パン・コロッケ・カツレツ等の西洋料理に、コーヒー・紅茶、酒はビールや果実酒も愛飲された。住居は、木造平屋建ての二戸建てでガラス戸が入り、形ばかりの玄関庇(ひさし)も付いていた。
*参考資料/新北海道史第一巻概説より
  • 昭和22年頃の札幌駅前通り

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