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明治43年頃-暮らし・社会3【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌

明治43年頃(明治43年~昭和34年頃) 6暮らし・社会

  • タイトル

悲惨な戦争のつめあと

北海道空襲と石狩の被害
太平洋戦争では、北海道本土に戦火はほとんどおよばなかったものの、昭和20年7月14~15日、道内38市町村が空襲をうけた。下北半島沖に13隻の空母群が現れ、無数の艦上機を一斉に発進させ、室蘭港に停泊中の艦船が撃沈された。この『北海道空襲』で、2,000人以上もの道民が犠牲になった。
石狩川流域では、札幌市内の「丘珠飛行場(現・丘珠空港)」や石油貯蔵庫などが攻撃されたが、艦上機がう回する地点にあった石狩市の被害が大きかった。7月15日午前8時頃、現在の花川地区で牛と馬が撃たれ、石狩川河口の本町・八幡町も空襲を受け、攻撃は午後3時半頃までつづいた。数ヶ所発火し犠牲者は13人に上ったほか、石狩浜にあった木造3階建てのホテルや役場庁舎が焼失した。
*参考資料/新北海道史第一巻概説、石狩市「石狩ファイル~石狩空襲」より
  • 空爆・銃撃された地区
人口が全国一位に
北海道の人口は、開拓の進展とともに順調に増えてきたが、昭和20年、一気に東京都と大阪府を抜いて1位になった。人口密度に余裕を持っていた北海道が、東京や大阪などから集団疎開者と、戦後には海外引揚者などを受け入れたからだ。
しかし人口の急増で、北海道は深刻な住宅難に陥る。不足住宅は、昭和23年4月末の時点で15万戸近くにも上った。道内のなかでも札幌市は、引揚者の定着率が高く、住宅不足は切迫した。住宅は自分で建てなければならなかったので、終戦直後に建築された住宅の多くは、従来よりもさらに劣悪で、衣食住のなかで住宅がもっとも復興が遅れた。このため昭和25年に「住宅金融公庫(現・住宅金融支援機構)」が設立されるなど、住宅の大量供給を可能にする環境が整えられた。
*参考資料/新北海道史第六巻通説五より
全国一の食糧難が襲う
終戦後、食料品の配給が遅れ(遅配)、北海道は全国一の食糧難に陥った。昭和21年7月末現在で、遅配は平均60日以上に上り、これほどの遅れは全国どこにもなかった。しかも遅配は、その後に補充もされない「欠配」になり、結果的に配給量が削減された。この犠牲になったのは子ども達で、6年男子の平均体重は、昭和12年は29.5kgだったのに対し、昭和21年は28.3kgになるなど年々低下した(小樽市「学童体位の統計」より)。
政府は非常措置として、米の代わりになるものならなんでも配給した(総合配給)。トウキビの粉・カボチャの切干し・澱粉粕(でんぷんかす)・海藻麺などが穴埋めに使われた。
*参考資料/新北海道史第六巻通説五より

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