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開拓初期:石狩川右岸流域-土地利用2(農業・市街地)【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

開拓初期(明治初期~明治42年頃) 石狩川右岸流域 土地利用

  • タイトル

高知県人による理想農場

浦臼市街にある聖園教会は、聖園農場が前身だ。
武市安哉(たけちあんさい・やすや)は、土佐(現・高知県)の武市家の分家に生まれた。幕末に「土佐勤王党」をひきいた武市半平太(瑞山)の親戚で、坂本龍馬も親戚にあたる。明治12年に板垣退助が結成した自由党の代議士になり、18年には坂本龍馬の甥・坂本直寛等と洗礼を受けた。高知は自由民権の思想とともに、いち早くキリスト教の布教が進んでいた。しかし武市は民権運動だけでは農民の暮らしは良くならないことなどから、信仰とともに開拓に従事する理想の農場をつくるため浦臼の貸下げを受ける。明治26年、26人を伴って浦臼に移住し、翌27年には児童のために、小学校にも使える教会堂を建てた(現・浦臼小学校)。しかし、第3次移民募集のために乗った青函連絡船のなかで武市安哉は急死。聖園農場は娘婿の土居勝郎が土居農場として引き継いだが、明治31年洪水で教会堂が壊れ、被害に遭った信者や牧師が去るなど一時牧師がいない状況に。その時、応援にやってきたのが坂本直寛だった(明治35年に旭川に移る)。
農場は北海道屈指の養蚕(ようさん)地になったが、経営難などで明治42年に北海道拓殖銀行(後に破たん)に譲渡された。しかし土居勝郎の五女・土居英子牧師が教会を守り、昭和37年頃には聖園農場を復活させた。
*参考資料/浦臼町史

農業を広めた集治監

明治14年に開監した「樺戸集治監」は、自給自足を目指し囚人による農耕が義務付けられ、月形の農耕適地のほとんどが集治監内にあった。明治17年、須部都川上流で囚人により稲作が試みられ、これが空知管内の稲作のはじまりといわれる。
明治20年頃になると、集治監の用地の一部が北越殖民者に払い下げられ、新潟団体の移住が進んで農村が拡がりつつあった。水稲の栽培に確信が持てるようになると、須部都川上流から南の耕地へ水を送るかんがい溝が明治38年に完成した。これで水田が約3倍拡げられることになる。36年から行われた工事は、のべ43,715名の囚人がたずさわり、幅約3.3m、長さ約6.6kmを開削し、約82haの水田にかんがい用水がおくられた。何度かの改修を経て、現在はコンクリート装工になっているが、流路はほぼ当時の位置を流れている。
*参考資料/月形町史、月形町・樺戸集治監の歴史コース詳細情報
  • 樺戸集治監本庁舎 樺戸集治監本庁舎

    (月形町蔵)

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