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明治43年頃:夕張川流域-土地利用2【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

明治43年頃(明治43年~昭和34年頃) 夕張川流域 土地利用(農業・市街地)

  • タイトル

<この時代の農業の状況>

夕張川流域では、昭和4年に「南長沼土功組合」が設立され、かんがい施設が整備され造田が進んだ。さらに夕張川新水路の通水で未開地の農 地開発が進み、戦後の緊急開拓で幌向原野が開拓され、昭和34年には南幌の各土地改良区が「北海土地改良区」と合併し、米どころの基礎が築かれた。北海道初となる水利土功組合を設立するなど、先進的な取り組みを進める栗山に、大正14年、道内一号の電化揚水機「南学田揚水機場」が完成した。これで北海道大学の演習農場200haが造田された。
また酪農では、雪印王国の北海道に本州大手の森永・明治も進出するようになり、原乳の獲得合戦が繰り広げられた。由仁に昭和29年に「明治乳業三川工場」が建設され、乳牛の飼料畑が広がった。
*参考資料/由仁町史、空知総合振興局「空知管内の歴史的水利施設

由仁の水争い

由仁には水量豊かな夕張川が流れていながら、農地が高台のため、川から水を引くことはむずかしかった。このため古山貯水池を増設したり、ため池をつくって開田にあてた。こうして大正末頃には、由仁の米は他地域に売られるようになったという。しかし由仁川上流などに水田を開いたことから下流が水不足になり、町内あちこちで水争いが起こった。また夕張川から水を引けるよう、沿岸のまちへの働きかけも必要だった。どのまちも水不足に苦しんでいたのだ。
昭和10年、ようやく夕張川の余剰水が利用できるようになり、念願のえん堤が建設された。また炭鉱の電力供給用に建設された清水沢ダムが、29年にかさ上げされ、由仁にも用水が供給された。それでも、抜本的な水不足解消には至らなかった。
*参考資料/由仁町史、北海土地改良区80年史
  • 当時のままの姿を残す南学田揚水機場(江別河川事務所・夕歩道より)。 当時のままの姿を残す南学田揚水機場(江別河川事務所・夕歩道より)。

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