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昭和35年頃:豊平川流域-土地利用2【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

昭和35年頃(昭和35年~昭和54年頃) 豊平川流域 土地利用(農業・市街地)

  • タイトル

〈この時代の農業の状況〉

南区小金湯にあった札幌市農業センターの花き栽培
南区小金湯にあった札幌市農業センターの花き栽培

(札幌市文化資料室所蔵)

戦前・戦後を通して、札幌は周囲を篠路や白石、豊平に手稲など一大農業生産地に囲まれ、生産物の供給と消費がバランス良く成り立っていたが、人口の急増にともなって宅地化の波は農地を襲い、30年代からそのバランスはくずれた。米は札幌農業の最重要な作物とされ、昭和38年まで作付面積は増加をつづけたが、それ以後は減少に転じ、45年以降は劇的に減少した。この状況の下、野菜と畜産、花きの生産は順調に伸びていた。札幌農業は都市農業を目指し、ビニールハウスや温室など園芸施設で育てる、そ菜(野菜や果物)や花きなどの園芸農業に移っていった。
*参考資料/新札幌市史

サッポロスイカと大浜みやこ

手稲山口地区でのスイカの収穫
手稲山口地区でのスイカの収穫

(札幌市文化資料室所蔵)

手稲山口地区では、大正5年から自家用のスイカがつくられていた。農地の多くは砂地で、不毛の地と呼ばれたところだ。しかし砂地はスイカの甘みを引き出し、品質の良いものが育つため、昭和4年から円山朝市で売られ、「山口スイカ」として余市の「蘭島スイカ」としのぎを削った。米の減反政策で水田はスイカ畑にかわり、昭和46年にはピークをむかえた。全国に販路を広げたのを機に、山口県産と間違われぬよう、昭和50年に「サッポロスイカ」に改称された、今も札幌を代表するブランドだ。
しかしスイカは栽培がむずかしく、昭和55年は冷害で大打撃を受けたことから、安定性のあるカボチャも栽培されるようになった。その美味しさは全国から食材が集まる東京築地で認められ大浜海岸に近いことから「大浜みやこ」と名付けられた。

*参考資料/札幌市手稲区役所・手稲のはなし、
札幌市経済局・さっぽろもぐー

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