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昭和55年頃:石狩川上流域-歴史のひとこま【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

昭和55年頃(昭和55年~平成8年頃) 石狩川上流域 歴史のひとこま

  • タイトル

世紀の大投手スタルヒンと旭川

昭和五十九年、
花咲スポーツ公園内にスタルヒン球場が
オープンした(旭川市民球場)。
時代に翻ろうされつつ数々の
大記録を打ち立てたスタルヒンは、
今も旭川の英雄だ—
  • ふりかぶったスタルヒンの像

    ふりかぶったスタルヒンの像(Wandaba撮影)

ロシア生まれ旭川育ちの巨人軍投手

ヴィクトル・スタルヒンは、大正5年に帝国時代のロシアに生まれた。社会主義国家の樹立につながったロシア革命の際、一族の中に王党派がいたため、昭和のはじめ頃に両親とともに日本へ亡命し、旭川に住んだ。日章小学校を卒業後、旧旭川中学校(現・北海道立旭川東高等学校)に進学。1年生でマウンドに立ち、全道中等野球大会に出場。昭和9年には、巨人軍の前身「東京野球倶楽部」に入団した。
昭和13年に最高防御率・最高勝率・最多完封勝利・最多奪三振を記録し、投手の5大タイトルを独占した。翌14年には、巨人軍66勝中42勝をあげ最高殊勲選手に選ばれる。さらに翌15年は、18連勝を成し遂げ2年連続最高殊勲選 手となった。しかし時は第2次世界大戦へとむかう戦時下。ロシアと日本のふたつの国の間で、スタルヒンの運命は大きな波にのみ込まれていく。

剛速球で大記録を樹立

通算300勝を達成
昭和14年、日本とソビエト連邦(現・ロシア)の間で大規模な軍事衝突「ノモンハン事件」が起きると、スタルヒンは「須田 博」に改名させられた。第2次世界大戦の戦局のひとつ・太平洋戦争では軽井沢に軟禁された。そして巨人軍は、スタルヒンを球界追放した。こうして終戦をむかえ、スタルヒンは昭和21年、パシフィックに復帰し、ふたたびマウンドへ。
昭和30年にはプロ野球史上初の通算300勝を成し遂げ、同年に引退。昭和32年1月12日、自動車事故により40才という若さで旅立ってしまう。その功績をたたえ、昭和35年に野球殿堂入りした。旭川では、改修工事を終えた市民球場を「スタルヒン球場」と名づけ、正面に等身大の巨人時代のスタルヒン銅像を建立した。旭川が生んだ大投手の功績を残そうと、旧旭川中のOBが熱心に働きかけて実現したものだった。第二のふるさと旭川は、190センチメートルあったというスタルヒンの、大きな偉業をいつまでも忘れない。
*参考資料/旭川市公園緑地協会・あさひかわの公園、旭川観光協会・スタルヒン球場

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