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9 対雁捷水路【札幌開発建設部】治水100年

石狩川治水に係わる主な事業

9 対雁捷水路

泥炭が工事の行く手をはばむ

1区では最後となる対雁捷水路の工事は、大正12年4月からはじまった。
対雁原野は見渡す限りの泥炭地で、はるか向こうに人が歩いてもゆれるほどの軟弱地盤。その状況のなか対雁捷水路は2,345mという、生振、当別に次ぐ長さだったため、忍耐と努力の言葉に尽きる苦闘の工事がつづくことになる。乾燥した地盤の上にエキスカベーターが運ばれ、掘削がはじまった。しかし、厚いところでは7mもある泥炭層がことごとく行く手をはばみ、掘削機が使用できたのは捷水路下流の一部にすぎなかった。このため、新水路はほとんど人が掘り進めることになった。冬は、人力掘削とともに馬ソリで土砂などが運ばれ、難工事のなかでも着々と工事は進み、昭和8年にようやく通水をみた。
さて、捷水路の名称になった対雁地区はむかし、「津石狩」と呼ばれた江別発祥の地とされる。明治以前から鮭漁と石狩川での運輸拠点として栄え、番屋が置かれ、松前藩の交易が行われた「イシカリ十三場所」のひとつだった。「遠山の金さん」の父、遠山金四郎景晋も、西蝦夷地探検の帰途に宿泊したという記録も残る歴史ある地域だ。
  • 軟弱な地盤でたいへんな工事になった 軟弱な地盤でたいへんな工事になった

    (石狩川開発建設部蔵)

明治43年頃
  • 人力掘削と馬による運搬の様子、昭和3年頃 人力掘削と馬による運搬の様子、昭和3年頃

    (札幌河川事務所蔵)

所在地
  • 江別市角山~中島 江別市角山~中島

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