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観光 体験 胆振歴史紀行~和人開拓編~

胆振歴史紀行~和人開拓編~

 ※これは平成23年(2011年)10月掲載の情報です。
「北海道には歴史があまりない」などと良く言われますが、洞爺湖有珠山ジオパークなどの太古からの地球の動きを知ることができるスポットをはじめ、縄文遺跡など先史時代、アイヌの人々の歴史を知ることができるスポットもたくさんあります。そして、江戸後期から明治時代以降の北海道開拓の歴史を知ることができる場所もたくさんあります。

今回、訪問したのは、
です。胆振地方にある江戸時代・明治時代以降の開拓の歴史が分かるスポットをご堪能ください。

虻田郷土資料館

洞爺湖町虻田市街にある「虻田郷土資料館」は、明治時代以降の人々の暮らしや地域の産業の移り変わりを紹介する施設です。洞爺湖町は2008年に旧虻田町と旧洞爺村が合併して誕生した町です。本資料館は、旧虻田町を中心とした資料が展示されています。

行き方は、虻田市街の国道37号山側に「史跡入江・高砂貝塚0.3km」「入江・高砂貝塚館0.3km」「母と子の館0.3km」と看板が出ています。何故か郷土資料館の案内はありません。その看板のところから山側に伸びる道路をまっすぐ進みます。
  • 虻田郷土資料館

踏切を渡り、ちょっとした坂を登っていくと、左側に「虻田郷土資料館」があります。行き過ぎると「入江・貝塚館」に着きます。貝塚館は50mも離れていないので、折角来たのなら両方見学してみましょう。自家用車でない方も、JR洞爺駅からタクシーで約2分、徒歩でも約15分程度で行くことができます。
  • 虻田郷土資料館

「虻田郷土資料館」は、開館期間は4月~11月で、開館時間は9:00~17:00。休館日は毎週月曜日と祝日の翌日。入館料は隣接する「入江・高砂貝塚館」と共通で、大人150円、小中校生100円、団体15名以上では、大人100円、小人50円です。

入館しようとしたところ、入口に「貝塚館にお越しいただくか、下記までご連絡下さい」の札があります。係員の人が「貝塚館」と兼ねていて、通常は貝塚館にいるためなのです。

係の人にお願いして、いざ入館。同館は、旧虻田町の人々の生活の歴史に関する資料を、農業・漁業・工業/林業・観光/商業の分野ごとに展示しています。

こちらは農業に関する資料の展示スペース。稲作・畑作などに利用した農具などが展示されています。虻田地区の稲作は、1857年、和田屋茂兵衛さんが3haを開田したのが最初と言われています。茂兵衛さんについては、「虻田歴史公園」でも触れていますよ。
  • 虻田郷土資料館

洞爺湖温泉の発展についても解説されています。1917年に発見された洞爺湖温泉は、洞爺湖電鉄の開業により、洞爺観光ホテル、万世閣などのホテルが開業し、次第に発展していきました。展示室の外にあるのは、昭和10年代の写真の自動撮影機(展示室入り口の左側)とお菓子の自動販売機(展示室入り口の右側)です。
  • 虻田郷土資料館

漁業関係の資料も展示されています。現在、洞爺湖町ではホタテの養殖を中心にカレイ、スケトウダラ漁などが盛んですが、明治中期にはサケ漁、大正後期から昭和12年頃まではイワシ漁が盛んでした。
  • 虻田郷土資料館

昔の民家の内部の様子を再現したスペース【写真左】や、旧虻田町の歴史を写真で解説したコーナー【写真右】もあります。
  • 虻田郷土資料館
  • 虻田郷土資料館

虻田歴史公園

国道37号の海側に道の駅「あぷた」があります。国道から入って「あぷた」への道をさらに進むと、左手に「夕日ヶ丘パークゴルフ場」があり、さらに進み丘に登ると、右手に虻田漁港を一望できる小さな駐車場があります。その駐車場の道路を挟んで反対側に「虻田歴史公園」があります。「虻田歴史公園」の看板はありません。車以外で行く方法は、JR洞爺駅から道南バス・室蘭行き「北工前」バス停から東に100m、徒歩で10分進むと、虻田歴史公園があります。

【写真左】国道から来ると右手に駐車帯、左手に歴史公園があります。
【写真右】駐車帯から見た歴史公園の様子。
  • 虻田歴史公園
  • 虻田歴史公園

この日はあいにくの曇り空。駐車帯からみる、晴れた日の噴火湾はさぞかし美しい眺めなのでしょう。こんな写真しか撮れなくてゴメンナサイ。
  • 虻田歴史公園

1663年の有珠山噴火で、アイヌの中心的なコタンである「オコタラヘ」から避難したアイヌの人々が、この辺りを「アプタペツ(鉤(カギ)をつくり魚を釣ったところという意味)」と呼び、多くの人たちが住んでいました。しかし、1822年の有珠山噴火(文政の大噴火)で焼け野原となり、和人6名、アイヌ人53名、牧馬1430頭が焼死。人々は新しい地・フレナイ(現虻田市街)に移住してしまったのです。

公園でまず目にとまったのが、馬頭観世音碑。北海道文化財に指定されており、観音堂に納まっています。周囲には、32基の馬頭碑もあります。なぜここに馬頭観世音碑かというと、江戸幕府の箱館奉行・戸川安論が幕府の許しを得て1804年に「有珠・虻田牧場」を開設、馬の守護を願って建てられたのが、この碑です。「有珠・虻田牧場」は今の豊浦町から伊達市黄金(こがね)までという広大な土地に二千数百頭を放牧していましたが、文政の大噴火により1430頭、1822年には大雪で900頭余りが死んだと言われています。
  • 虻田歴史公園
  • 虻田歴史公園

こちらは、「場所請負人和田屋茂兵衛墓碑」。茂兵衛さんも文政大噴火の犠牲者の一人です。1822年1月19日から断続的に噴火を繰り返していた有珠山は、2月1日午前6時に大噴火し、猛烈な火砕流が一瞬のうちに「アプタコタン」を焼いてしまったそうです。人々は先を競って海に逃げ込み、地獄さながらの光景だったそうです。
  • 虻田歴史公園
他にも公園内には、虻田町先住アイヌ民族慰霊碑、菅江真澄の歌碑などがあります。菅江真澄は、1791年、福山城下(現在の渡島管内松前町)より海路で虻田に入った紀行家です。

伊達市開拓記念館

道の駅「だて歴史の杜」がある「だて歴史の杜総合公園」には、「伊達市開拓記念館」があります。
  • 伊達市開拓記念館

緑豊かな庭園内には、銅像が立っています。
【写真左】の銅像は伊達邦成(くにしげ)、【写真右】は田村顕允(あきまさ)です。どちらも伊達市開拓になくてはならない方々なのです。さて、どんな人たちなのでしょうか。
  • 伊達市開拓記念館
  • 伊達市開拓記念館

幕末、奥羽列藩同盟の盟主に担ぎ上げられた仙台藩は、戊辰戦争で明治政府軍に敗れ、領地を3分の1以下に減らされました。伊達家一門であった亘理伊達家も2万4000石から58石5斗に減らされ、家臣団は窮地に陥りました。そこで家老の田村顕允は、15代領主伊達邦成に、家中丸ごとの自費移住による蝦夷地開拓を進めたのです。1869年に有珠郡の支配を許され、翌年に250名が移住、その後1881年までに9回、邦成以下2681名と伊達家重臣柴田家の123名がこの地に移住しました。その後、移住者たちは西洋式農具で開墾を進め、稲作、農耕馬や乳牛の飼育、アマやアイ栽培など、北海道農業の先駆となり、また、伊達市発展の基礎を作りました。

開拓記念館が建つこの公園は、「旧伊達家庭園」で、戦後伊達市に寄贈されました。同館には、伊達家由来の品々2000点が展示されています。開館期間は3月1日から11月30日で期間内は無休。開館時間は9:00~17:00、観覧料は大人260円、中高大生200円、小学生130円(20人以上は団体割引として各30円割引)です。

入館して最初に紹介されているのは、15代領主伊達邦成とその母の貞操院保子です。保子は、亘理伊達家の14代邦実の妻で、本藩藩主伊達慶邦の妹です。邦実が若くして亡くなったため、保子は31歳で出家したのです。その後、周囲の反対を押し切り開拓団とともに伊達市に渡り、家臣団の精神的な支えになったとのことです。伊達市開拓が成功した理由として、①現地のアイヌの人々と友好関係を築いたこと、②西洋式農具を導入したこと、③貞操院保子の精神的支えがあったこと、が上げられます。邦成・保子のほか、太政官(明治政府)が発行した「有珠郡開拓沙汰書」も展示されています。

伊達家で使用された生活用具も展示してあります。化粧道具、たばこ盆、硯、机、盥(たらい)までありました。盥(たらい)なのに漆塗りの立派なものでした。1830年にヨーロッパで作られたオルゴールもありました。どんな音色なのだろうと思っていると、解説員の方がBGMで流れている曲がその音色だと教えてくれました。

亘理伊達家で所有していた刀剣類や甲冑類、陣笠のほか、弓矢や火縄銃もありました。特に印象に残るのは亘理伊達家初代当主・伊達成実所用の甲冑「紺糸威五枚胴具足」で、兜には毛虫の前立てが付いています。毛虫の後に下がらない性質と同じように敵前で逃げないという意思を表示しています。刀剣類も鋭く光っています。年4回は刃に油を引くなどの手入れが行われています。

陣羽織もあります。色鮮やかな陣羽織は、江戸後期に作られたもので、亘理伊達家のものから家臣のものまでありました。伊達家当主が羽織っていた陣羽織には将棋の「香車」の絵が刺繍されています。将棋の駒と同じく後ろに退かないという意思を表したものなのでしょうか。

館内で一番目を引いたのが、雛人形です。亘理伊達家に嫁いできた歴代花嫁が持参したもので、つくられた時代により人形の大きさ、顔の作りも違っています。

雛人形のほかには、貝の左右の裏に源氏物語の絵が書かれていて、それをあわせて遊ぶ「貝合わせ」で使う貝が入った道具がありました。貝は金箔で装飾されており、貝桶には葵の御紋が入っており、徳川家から伊達家に嫁いだ花嫁が持参したものだということです。

館内には「縄文アートギャラリー」もありました。有珠モシリ遺跡などの道内の先史時代の遺跡から出土した石器類、装飾具などが展示しています。
有珠モシリ遺跡は、有珠湾のモシリ島で発見された、今から約1,800年前の続縄文時代の遺跡です。この遺跡からは、美しく装飾された骨格器などが多数発見されています。遺跡で発見された人骨の手首の部分からは、南海産のイモガイの貝輪が発掘されました。これは続縄文時代に北海道と西日本の間で人的・物的交流があったことを示すもので、今までの定説を覆す貴重な遺跡として全国の注目を集めています。

記念館敷地内には、国指定重要文化財である「旧三戸部家住宅」があります。この住宅は明治時代に建てられた開拓当時の民家で、北海道内に現存する最古のものです。三戸部家は、1873年に宮城県亘理郡吉田村から、有珠郡東紋別村に、第5回移住者562人とともに家族4人が移住し、開拓にあたったと言われています。移住当時の家族は、子之吉(32歳)、キミ(30歳)さん夫婦と11歳と4歳の子どもでした。
  • 伊達市開拓記念館

こちらは家屋内の「ニワ」と呼ばれる土間の様子。当時の状況が再現されており、説明板もあります。この家屋の特徴は、家屋の半分を占める土間。過酷な北国で暮らしていくためには、農具の手入れなどの作業をするスペースを十分にとっておく必要があったのです。
  • 伊達市開拓記念館

こちらは、土間の横にある「オクザ」と呼ばれる生活空間。この左手には納戸があります。
  • 伊達市開拓記念館

開拓記念館の玄関を出ると、右手前方に「迎賓館」があります。この迎賓館は、1892年に伊達邦成が開拓の功績により男爵の位をもらったお祝いに、家臣たちが建てました。開拓状況視察のために来道した政府高官や開拓使をもてなしたり、泊めたりするのに使われたことから、「迎賓館」と呼ばれていました。1955年頃までは実際に伊達家の邸宅として使われていました。

館内は自由に見学できます。ここには開設ボランティアの「くわの会」のメンバーの方々がいろいろ解説してくれます。内部は、和室のほか洋室もあります。
  • 伊達市開拓記念館

【写真左】は、2階の和室の様子。数寄屋風書院造りだそうです。
【写真右】は、洋室の様子。床は1987年に張り替えられているそうです。
  • 伊達市開拓記念館
  • 伊達市開拓記念館

縁側には座布団が用意されており、しばしここで庭を眺めながら休憩。
  • 伊達市開拓記念館

開拓記念館などを取り巻く木々は、伊達邦成が入植時に植栽したアカマツなどのほか、ボランティアの「だて記念館びおとーぷクラブ」がお手入れをしている野草園もあり、野生のリスも姿を現すことがあります。
  • 伊達市開拓記念館
  • 伊達市開拓記念館

記念館や迎賓館への行き方ですが、国道37号沿いに「だて歴史の杜総合公園」があります。写真のように立派な門があるのですぐわかります。車以外の方法では、JR伊達紋別駅から道南バス循環線に乗り「開拓記念館前」で下車すれば直ぐです。
  • 伊達市開拓記念館

室蘭市民俗資料館(とんてん館)

国道37号が、白鳥大橋へと続く高架橋と交差する場所、室蘭方面から進むと右手に、陣屋町へと続く道があります。国道からその道に入り、100mほど進んで左折すると、そこに印象的な建物が視界に入ってきます。正倉院で有名な校倉造りを模した「室蘭市民俗資料館」の建物です。

こちらが建物の写真。ちなみに、別称を「とんてん館」と言うそうです。これは、室蘭の産業の根幹である製鉄における鉄を打つ音「とんてんかん」と、屯田兵の「とんでんへい」の音を掛け合わせ、「かん」の音を「館」としているそうです。
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)

玄関を入ってすぐのロビーでは、大きな映写機が私たちをお出迎え。この映写機は、カーボン(炭の棒)を光源にする仕組みです。カーボンを使用した上映方式が廃止され、今では非常に貴重なものとなっているとのことです。
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)

室蘭民俗資料館の1階は、明治期からの日常生活用具などを納めた収蔵庫があり、収蔵と展示を一体化した陳列方法をとっています。約8,000点があるそうです。
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)

柱時計、洗濯機、アイロン、ラジオ、当時の計算機など。その中でも個人的に目を引いたのが、「電髪パーマ機」。これでステキなヘアースタイルになれたのでしょうか?
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)

さて、注目すべき展示物として、友情人形(青い目の人形)があります。1927年にアメリカから日本の子どもたちに贈られた、パスポートを持った平和親善の人形使節である青い目の人形です。この人形は、室蘭市内の小学校などに12体送られました。太平洋戦争中に多くの友情人形は敵性人形として処分されましたが、絵鞆小学校に贈られた人形だけが唯一処分を免れました。その後、1994年よりこの資料館に展示されています。12体それぞれにどのような名前がつけられたのかは不明ですが、その中の1体は「エブレン」と名付けられたそうです。この人形は室蘭市指定文化財となっています。
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)

2階は、常設展示室があり、室蘭の歴史を体系的に紹介しています。室蘭にある縄文時代のエトモ、ポンナイ遺跡から出土した土器群やアイヌ民族の文化、江戸時代の和人たちの交易所、南部陣屋、開拓と屯田兵、室蘭港の賑わい、製鉄の歴史、太平洋戦争に関する資料を展示・解説しています。
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)

こちらは開拓時代の農具や生活用具を展示しているスペース。
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)

室蘭港の歴史についても展示しています。
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)

こちらは日本製鋼所にある迎賓館「瑞泉閣」で使用された家具です。「瑞泉閣」には大正天皇(当時は皇太子)、昭和天皇など、数々の要人が宿泊された由緒ある歴史的建造物です。
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)

戦時中の人々の暮らしについても展示しています。右の銀色のロケット状のものは、昭和20年の艦砲射撃で市内に撃ち込まれたアメリカ軍の16インチ砲弾の模型です。大きい!
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)

再び1階に下りて、階段右横の出入り口から体験学習室へと向かいます。
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)

ここが体験学習室。大正期の民家が再現されており、とんてん館寺子屋教室をはじめとする体験学習を行っているそうです。
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)
  • 室蘭市民俗資料館(とんてん館)
当資料館は無料で、開館時間は10:00~16:00まで(入館時間は15:30まで)。休館は毎週月曜日、祝日の日の翌日、年末年始(ただし夏・冬・春休み中は無休)のほか、1月20日から3月19日までは整理休館となっています。

東蝦夷地南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡

とんてん館の正面に見て右側に坂道があります。そこを登り、突き当たりを右に曲がって100mほど砂利道を進むと、国史跡である「東蝦夷地南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡」があります。

1855年、幕府から箱館(現函館市)・幌別(現登別市)間の警備を命じられた南部氏(岩手県中北部から青森県東部を領地に持つ)は、箱館に元陣屋を、砂原(森町)、長万部に屯所を置きました。さらに、室蘭湾を調査し、ペケレオタ(現室蘭市陣屋町)に出張陣屋をつくり、室蘭周辺に台場や遠見番所を配置しました。

室蘭の地に築かれた出張陣屋は1856年に完成、室蘭湾を望むこの地に二重の土塁・堀が方形に巡らされました。ペケレオタとはアイヌ語で、「白い砂浜」という意味で、埋立が行われる前にはこの陣屋付近の海辺は、道南有数の海水浴場だったそうです。

陣屋の内陣には、大砲方詰所、鉄砲武者詰所などが設けられ藩士が駐留していました。1868年の戊辰戦争に伴い藩士らが盛岡に引き揚げるまで警備は12年あまりに及びました。現在は、内陣建物跡が平面復元され、堀と土塁も修復され、史跡公園として整備されています。

陣屋表門跡です。振り返ると工場群が見えますが、あまり海は見えません。当時は、見晴らしの効く場所だったのでしょう。
  • 東蝦夷地南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡

表門跡から入り、平面復元されている陣屋跡です。イマジネーションを働かせて、どんな建物だったのか、藩士たちはどのような気持ちでここにいたのか、色々想像してみるのも良いでしょう。後ろの杉林は当時、藩士たちが植えたものです。
  • 東蝦夷地南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡
車以外の行き方ですが、JR本輪西駅から、道南バス・白鳥台団地行き「陣屋」バス停下車、徒歩10分です。

登別市郷土資料館・登別市文化伝承館

「登別市郷土資料館」「登別市文化伝承館」は、白石城主・片倉家の居城をモデルに建てられており、川上総合公園に隣接しているほか、近くには幌別ダムがあります。

「資料館」は、登別市指定の文化財や縄文時代の出土品、郷土史や文化を伝える資料を展示しています。「伝承館」は、工芸品づくりや郷土芸能の講習会などを時季に応じて開催しており、自由に参加することができます。

登別市幌別地区は、仙台藩の家臣で白石領主(1万8千石)・片倉家主従が開拓した地区です。奥羽列藩同盟に与し明治政府に敗れ、領地を失った片倉家は、藩士の処遇に困り、明治政府に蝦夷地移住の嘆願書を出しました。1869年、片倉小十郎邦憲は、開拓使から幌別群支配を命じられ、翌1870年と71年に、子の景範は旧藩士66戸、244人と職人28名を率いて幌別に移住しました。自費渡航であったため、費用の捻出に苦労し、移住しようとした人々は、家屋や田畑、家財道具などを売り払って資金を確保しようとしましたが足りず、居城である白石城まで売って開拓資金に充てたと言います。しかし、開拓は困難を極めました。土地は火山灰混じりで地力に乏しく、また、冷害等があったためです。1877年、幌別の地は開拓者数が多くなり、開拓する土地が少なくなってきたため、片倉景範と約30戸が札幌に移住、札幌市白石区の基礎を作りました。1888年に景範の子・景光が幌別に戻り農業に従事しましたが、20年後に宮城県白石に引き上げています。

資料館の敷地に「御衣黄」の桜がありました。敷地にはいろいろな桜が咲くそうですが、中でもこの「御衣黄」が人気を集めるそうです。毎年5月に花が開いたときには緑色なのですが、次第に緑色は薄れて黄緑色から黄色になり、やがて中心部が筋状に赤くなります。花の色が貴族の衣裳のようだとのことから御衣黄と名付けられました。江戸時代には、高貴な桜として庶民の目には触れないところで栽培されたと言われる珍しい桜だそうです。
  • 登別市郷土資料館・登別市文化伝承館

それでは入館しましょう。
受付で入館料を払い館内に入ると、ヒグマがお出迎え。「ムサシ」といい、8歳とのこと。強そうです。もちろん剥製ですけど。
  • 登別市郷土資料館・登別市文化伝承館

1階は、明治・大正・昭和の生活必需品や登別の産業に関する資料が展示されています。産業に関する資料では、幌別鉱山で使われた機械・道具を展示しています。
【写真左】は、昔の人たちが住んでいた家を再現した様子。生活用具などが展示されています。
【写真右】は、登別温泉の歩みを紹介しているコーナー。
  • 登別市郷土資料館・登別市文化伝承館
  • 登別市郷土資料館・登別市文化伝承館

【写真左】鉱山コーナー。登別市には、金・銀・銅・硫黄を採掘した「幌別鉱山」がありました。
【写真右】は、林業コーナーと漁業コーナー。それぞれ使用された道具類が展示されています。
  • 登別市郷土資料館・登別市文化伝承館
  • 登別市郷土資料館・登別市文化伝承館

2階は、片倉家に関する資料が展示されています。まずは甲冑群が展示されています。
【写真左】は、初代当主・片倉小十郎景綱が伊達政宗から拝領した鎧。右は、片倉家家臣・三木庄左エ門の甲冑。
【写真右】は、銃や刀剣の展示。銃は「村田銃」といって、村田経由(つねよし)が1880年に完成。性能は外国銃に優ると言われました。
  • 登別市郷土資料館・登別市文化伝承館
  • 登別市郷土資料館・登別市文化伝承館

片倉家北海道移住顛末、「明治2年以降片倉家北海道移住顛末」「黒澤家資料」などが展示されています。

「明治2年以降片倉家北海道移住顛末」は片倉家の家老であった日野愛惠が、片倉家が入植した明治2年から24年間のできごとをまとめた文書で、片倉家の人々が幾多の困難を乗り越えてきた、登別市開拓の歴史が書かれています。

「黒澤文書」は、片倉家家臣の黒澤家に伝わる武家文書で、初代・片倉小十郎景綱の功績が書かれた「黒澤家本景綱記」をはじめ、武家社会における辞令または身分証明書にあたる「知行目録」、武術の免許皆伝書など33点の資料です。
  • 登別市郷土資料館・登別市文化伝承館
  • 登別市郷土資料館・登別市文化伝承館

片倉家の居城であった宮城県・白石城の模型も展示されています。当資料館はこのお城をモデルに建てられました。開拓時には、費用捻出のためこのお城さえも売却してしまったのです。
  • 登別市郷土資料館・登別市文化伝承館

3階は、知里幸惠・真志保兄弟を始めとする知里家やアイヌの人々に関する資料が展示されていますが、ご紹介はまたの機会に。当資料館は、体験学習も活発に行っています。

文化伝承館では、毎月第2・4土曜日に伝統文化を体験学習で学ぶことができます。そのほか特別企画展として地域資料の特別公開なども行っています。

当資料館の休館日は月曜、祝祭日の翌日、年末年始。開館時間は、4月~10月は9:00~17:00、11月~3月は9:00~16:00。入館料は大人190円、小中学生60円。

車で行く方法としては、幌別市街のJR幌別駅から北へと向かう道道327号「弁景幌別線」を北に向かって進み、高速道路の下を通ると、まもなくお城のような建物が見えてきます。これが資料館です。川上総合公園に隣接しているほか、近くには幌別ダムがあります。

車以外の行き方は、JR室蘭本線「幌別駅」下車、道南バス郷土資料館行き「終点」下車、徒歩1分です。

白老仙台藩陣屋跡・仙台藩白老元陣屋資料館

江戸幕府は、ロシアの南下政策など高まる外圧に対処するため、松前藩のほか東北諸藩に命じて蝦夷地を分割警備させ、うち仙台藩は、白老から襟裳岬を経て国後・択捉島までの東蝦夷地の警備担当となりました。とても長大な地域の警備を命じられたのです。当初は勇払(苫小牧市)に元陣屋を置くよう命じられましたが、白老が適地であるとして、同地に元陣屋を置くこととなりました。仙台藩は、1856年秋に完成した元陣屋のほか、広尾、厚岸、根室、国後島泊、択捉島振別に出張陣屋を置き、多くの藩士が警備に当たりました。

元陣屋は、円形や弧状の堀と土塁に囲まれ、外曲輪と内曲輪に大きく分けられて作られています。その中に6つの門を構え、本陣・勘定所などを築き、常時100名以上の藩士が駐屯しました。1859年には藩領地となったため代官も置かれ、白老発展に尽力しました。藩士たちは、藩財政が厳しいため支度や旅費は自弁、蝦夷地に行けば生魚が食べられると思っていたらしいのですが、塩鮭などばかりで困ったとのこと。寒さと食糧不足で病死者も多かったと言います。明治維新後の戊辰戦争では、仙台藩は朝敵となり陣屋は放棄され、その後廃累となりました。

現在は、史跡公園として整備、土塁や堀、表門が復元され、表門から約300m西には、藩士墓地があり11基の墓が佇んでいます。

【写真左】は、元陣屋の入口、表御門跡付近の様子です。
【写真右】は、御門付近の様子。この門をくぐると、外曲輪に入っていきます。
  • 白老仙台藩陣屋跡・仙台藩白老元陣屋資料館
  • 白老仙台藩陣屋跡・仙台藩白老元陣屋資料館
外曲輪に入ると、かつて存在した建物が平面復元されています。
【写真左】は、外曲輪から内曲輪方面の眺めです。奥の方に内曲輪の入口である詰御門跡が見えます。
【写真右】は、三番長屋跡です。
  • 白老仙台藩陣屋跡・仙台藩白老元陣屋資料館
  • 白老仙台藩陣屋跡・仙台藩白老元陣屋資料館

さて、いよいよ内曲輪内部です。ここには、本陣などが建てられ、元陣屋の中心的な場所でした。下の写真は、本陣跡です。
  • 白老仙台藩陣屋跡・仙台藩白老元陣屋資料館

敷地内には「仙台藩白老元陣屋資料館」があります。当時の時代背景・北方警備を説明するほか、当時の元陣屋を再現したジオラマや絵図、蝦夷地の地図、武具など約300点の歴史的資料が展示され、仙台藩の元陣屋での12年の歴史を知ることができます。
  • 白老仙台藩陣屋跡・仙台藩白老元陣屋資料館

元陣屋の白老設置を決断した三好監物(みよしけんもつ)とその一行。写真は、幕府に派遣された三好監物が白老を視察している場面を再現しています。監物は元陣屋の建設場所を幕府の命じた勇払(現苫小牧)ではなく、白老が最適と報告したため、翌年から白老元陣屋を中心とした蝦夷地警備が始まりました。
  • 白老仙台藩陣屋跡・仙台藩白老元陣屋資料館

幕末の蝦夷地を巡る国際情勢や仙台藩の出兵、白老に赴くまでの藩士たちの様子、陣屋の建設の様子など、詳しい説明が書かれたパネルや資料が展示されています。
  • 白老仙台藩陣屋跡・仙台藩白老元陣屋資料館
  • 白老仙台藩陣屋跡・仙台藩白老元陣屋資料館

【写真左】元陣屋のジオラマもあります。
【写真右】大筒(大砲)の複製も展示されています。江戸時代の早い時期に作られた大筒で、幕末には旧式になっていたようですが、幕末の白老に配備されていたそうです。
  • 白老仙台藩陣屋跡・仙台藩白老元陣屋資料館
  • 白老仙台藩陣屋跡・仙台藩白老元陣屋資料館
当館の休館日は月曜日、月曜日が祝日のときはその翌日、年末年始(12月31日~1月5日)。開館時間は9;30~16:30。入館料は一般260円、小中学生130円。

車以外での行き方は、JR白老駅から道南バス・陣屋資料館前行き「終点」で下車、徒歩5分です。また、白老駅から徒歩30分、タクシー10分です。

苫小牧市博物館

当博物館は「樽前山麓・勇払原野の自然と文化」をテーマに、郷土の自然や考古、歴史、アイヌ文化などに関する資料を収集・保存し、これらを「1.大地の生い立ち」「2.原野の生物たち」「3.原野のあけぼの」「4.アイヌのくらし」「5.開拓のあゆみ」「6.伸びゆく苫小牧」「7.スケートのまち苫小牧」の各コーナー毎に展示しています。

当博物館の休館日は月曜日、祝日(こどもの日・文化の日を除く)、年末年始(12月30日~1月6日)。無料開放日は「こどもの日」と「文化の日」。開館時間は9:30~17:00(入館時間は16:15まで)。入館料は大人300円、高校生200円、小中学生は無料です。

場所は、苫小牧市役所の近くにある市民文化公園の一角、国道36号と276号の交差点から港に向かう市道「港通」沿いにあります。車を利用するの場合は、市民文化公園南側駐車場車を利用します。車以外で行く方法としては、駅前バスターミナルから、錦西光洋線(13)、錦西文化公園線(14)、港町線(23)、フェリー線(24)、勇払線(25)、植苗線(33)に乗車、「文化公園」で下車、徒歩5分です。

【写真左】当資料館の外観。
【写真右】当博物館は、「市民文化公園」の一角にあります。中央図書館、総合体育館、ゲートボール場、グラウンド等、苫小牧市民の憩いの場になっています。
  • 苫小牧市博物館
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博物館のロビーには、マンモス親子が出現!!リアルな造りです。北海道では、夕張市、北広島市、えりも町などで臼歯が発見されているそうです。
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さて、館内の様子をご紹介したいところなのですが、館内は撮影禁止。常設展示案内のほか、デジタル資料室というコーナーがあり、数多くある資料の一端を見ることができます。横着しているのではないですよ。

勇払開拓史跡公園・勇武津資料館・開拓使三角測量基点

苫小牧市勇払地区は、江戸幕府の八王子千人同心が入植して以来、苫小牧発展の一角を担ってきました。そのため、勇払地区には、勇払開拓史跡公園、勇武津資料館、開拓使三角測量勇払基点など、文化財が多くあり、この地を訪れれば苫小牧開拓の歴史を肌で感じることができます。

これらの文化財がある場所ですが、苫小牧中心部から勇払市街に向かい道道・苫小牧環状線を進むと、やがて右手に日本製紙の工場が姿を現し、勇払市街も見えてきます。しばらく進むと右手に広い公園が見えてきます。そこが、「勇払開拓史跡公園」です。同公園には「蝦夷地開拓移住隊士の墓石群」があります。また、隣接して「勇武津資料館」や「勇払ふるさと公園」、「史跡開拓使三角測量勇払基点」があります。

車以外で行く方法としては、JR日高本線の勇払駅から徒歩10分。または、JR苫小牧駅から市営バス「勇払線(25)」に乗り、「勇払公住前」で下車、徒歩2分です。

各施設をご紹介する前に、「八王子千人同心」についてお話ししなければなりません。彼らは、江戸幕府の下級役人で、武蔵国多摩郡八王子(現八王子市)に配置され、武蔵・甲斐国の国境警備と治安維持を任務としていました。彼らは幕府に蝦夷地勤務を願い出て、1800年に約100名が2隊に分かれて白糠(釧路地方)と勇払に入りました。隊員50名は、むかわ町汐見で、畑作地開墾と警備に当たりました。しかし、寒さや栄養失調、流行病のため、1年足らずで3割が死亡し、入植者は4年で離散、開拓地を放棄するという悲しい歴史があるのです。
こうした歴史から、現在では苫小牧市と八王子市は姉妹都市となっています。

勇払史跡公園には「八王子千人同心追悼之碑」があります。志半ばで倒れた隊士を悼んで建てられたものです。
八王子千人同心関係4基9名、その他会所関係医師・役人・通詞、場所請負人など、合計18基29名が祀られています。現在では苫小牧市指定文化財として手厚く保護管理されています。

ちなみに会所とは、藩などの和人がアイヌ民族と交易するための場で、運上屋と呼ばれていたものです。勇払場所は、苫小牧で最初に開かれた場所で、苫小牧や千歳周辺に数カ所の場所の集散地で、運上屋がありました。1799年に勇払会所に統一されました。会所には幕府の役人や場所請負人、医師などが常駐しました。会所はその後、明治になって勇払郡開拓出張所の庁舎として使用されましたが、出張所が苫細(とまこまい)村に移されたのに伴い解体されました。会所跡は、資料館と線路を隔てた道路沿いにあります。

【写真左】「八王子千人同心追悼之碑」。先人の苦労が偲ばれます。
【写真右】公園内には東屋もありました。
  • 勇払開拓史跡公園・勇武津資料館・開拓使三角測量基点
  • 勇払開拓史跡公園・勇武津資料館・開拓使三角測量基点

同碑の右側手前2基目のお墓は、「夜泣き梅女」の悲しい物語のある河西梅のお墓です。
河西祐助の妻の梅は、幼い子を残し25歳の若さで病死しました。彼女の死後、雨の降る夜に、若い女が泣きながら「この子にお乳をください」と戸をたたき、戸を開けると誰もいないという。
夫・祐助は、墓碑に「哭家人」と銘じ、妻への思いを七言絶句で刻んでいます。祐助はその後、有珠で無くなり、その墓は梅とともに有珠善光寺墓地にあります。

「八王子千人同心追悼之碑」から北に徒歩5分の場所にあるのが「勇武津資料館」です。外観は幕末にあった勇武津会所を模した建物で、2001年に開館しています。

館内には、八王子千人同心、開拓使三角測量、江戸時代から明治時代初期の遺跡である「弁天貝塚」、勇払会所、北前船などに関する資料が展示されています。


【写真左】は、勇武津資料館の外観。重厚感があります。
【写真右】は、勇武津資料館がある「勇払ふるさと公園」。向こう側にあるのは「開拓使三角測量勇払基点」。反対側に「勇払史跡公園」があります。
  • 勇払開拓史跡公園・勇武津資料館・開拓使三角測量基点
  • 勇払開拓史跡公園・勇武津資料館・開拓使三角測量基点

資料館に入って、私たちを出迎えてくれるのが、この「八王子車人形」。「トクロ車」と呼ばれる3つの車を納めた箱に腰掛けて、一人で一体の人形を操り、人形が舞台に直接足を付けて演技ができるので、独自の躍動感が生まれるそうです。そうした構造は世界でも類が無いと言われています。
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板の間には囲炉裏が復元され、各種の調度品が展示されています。
  • 勇払開拓史跡公園・勇武津資料館・開拓使三角測量基点
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こちらは八王子市から寄贈された機織り機。
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こちらは、研修室。八王子千人同心、弁天貝塚出土品、アイヌ民具、北前船関連の資料が展示され、関連図書もあります。
「弁天貝塚」は、江戸時代末期から明治時代初期にかけての遺跡で、土坑やたき火後、彫刻が施された小刀、古銭、飾玉やビール瓶、焼酎徳利等、さまざまなものが出土しています。同貝塚は、幕末期のアイヌの人々と和人との関わり合いを解き明かす重要な資料となると言われています。
  • 勇払開拓史跡公園・勇武津資料館・開拓使三角測量基点
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本資料館の休館日は毎週月曜日、祝祭日の翌日、年末年始(12月30日~1月6日)。開館時間は10:00~17:00。入館料は無料ですが、団体の場合は事前申込が必要です。

最後に訪れたのが「開拓使三角測量勇払基点」。「勇武津資料館」から北西へ徒歩5分。「勇払ふるさと公園」を横切って行きます。

1873年、北海道開拓使は、正確な北海道地図を作成するため三角測量を開始、勇払と鵡川の間に基線を引き、その両端の基点に標石を埋めました。測量は1877年に中止されましたが、日本の三角測量による陸地測量の基礎となりました。
勇払基点は1962年に発見され、高さ90cm、一辺17m四方の盛り土があり、その中央に石柱が埋没していました。現在、苫小牧市博物館に標題の復元が展示されています。なお、鵡川基点の場所は、大規模捜索が行われたものの、現在もなお発見されていないとのことです。
  • 勇払開拓史跡公園・勇武津資料館・開拓使三角測量基点
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詳しい解説板もあります。
  • 勇払開拓史跡公園・勇武津資料館・開拓使三角測量基点
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<参考文献>
  • 新全国歴史散歩シリーズ1 新版北海道の歴史散歩 北海道歴史教育研究会編 山川出版社(1994)
  • 歴史散歩1 北海道の歴史散歩 北海道高等学校日本史教育研究会編 山川出版社(2006)
  • 北海道 新 博物館ガイド 北海道博物館協会編 北海道新聞社(1999)
  • 知っていますか?アイヌ民族一問一答(新版) 上村英明著 解放出版社(2008)
  • 世界遺産をめざす15遺跡 縄文遺跡ガイド 北海道・北東北 インテリジェント・リンク地域資源研究所編 (株)インテリジェント・リンク(2008)

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