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開拓初期-土地利用3【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌

開拓初期(明治初期~明治42年頃) 3土地利用(農業・市街地)

  • タイトル

米への想いが農業政策を変えた

石狩平野の米づくり
開拓当初、北海道での稲作は禁止されていたが、日本人にとって米は主食で、年貢(今の税金)でもあったため、開拓民の米に対する想い入れは深かった。明治6年、現在の北広島市で中山久蔵が米の試作に成功すると、石狩平野に普及した。
石狩川下流は湿地帯で、農耕地にするにはまず排水が必要だったが、稲は水の中で育つため、各地で競うように寒冷地に適した技術が開発されていった。明治28年には北海道初の水利土功組合「角田村水利土功組合」が、現在の栗山町に誕生した。
水田は石狩川中流の空知地方から上流の上川地方にまで達した。
*参考資料/新北海道史第一巻概説より
稲作を普及させた技術
北海道庁は、石狩平野での成功をみて、稲作奨励に方針を転換する。米づくりの権威で農学士の、酒匂常明(さこうつねあき)を道庁に招くと、酒匂は中山久蔵を営農指導にあたらせ、籾(モミ)を直接播く栽培法を推進する。
「水田直播器(タコ足)」は、農作業の手間を飛躍的に省き、とくに石狩・空知・上川など水田規模の大きな地域で急速に普及した。
こうして明治33年、農業生産額は漁業生産額を抜いて、産業の中で第一位になり、36年からは総生産額の約四割を占めるようになる。

水利組合/現在の土地改良区で、一定の地区内での水田開発を目的に、かんがい施設などをつくるなど土地改良事業を行う
  • 明治32年竣工の夕張川頭首工(昭和8年改良) 明治32年竣工の夕張川頭首工(昭和8年改良)
  • 角田村の水田 角田村の水田

    (北海道大学付属図書館蔵)

  • 水田直播器(タコ足) 水田直播器(タコ足)

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