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明治43年頃-交通3【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌

明治43年頃(明治43年~昭和34年頃) 4交通

  • タイトル

大正期のこう着と旭川市街の発展

戦時中の酷使と新たな歩み
昭和11年に行われた『陸軍特別大演習』を機に、鉄道網も広がり、「石北線(旭川~北見間)」や「札沼線」「天塩線」「日高線」「標津線」などが開通し、延長が進んだ。しかし、昭和12年からの「日中戦争」で戦時下に入ると、鉄道は石炭など重要資源の輸送に限られ、機関車は酷使されつづけた。そして終戦となり、北海道の鉄道は未曾有の混乱と危機にさらされた。機関車・車両の故障、施設の荒廃などで、運行距離を大幅に縮減しなければならなかった。旅客列車はつねにぎゅうぎゅう詰めで、遅れるのはあたりまえだった。
GHQは国家権力が及ばぬよう鉄道事業を、独立採算制の公共企業体として運営するよう勧告し、昭和24年に「日本国有鉄道(通称・国鉄)」が発足した。
*参考資料/新北海道史第一巻概説より
洪水が多発し道路整備を遅らせた
北海道の道路整備は、長さも質も不完全で、面積一方里あたりの道路延長は、本州で一番遅れている岩手県にさえ、はるかに及ばぬほどだった。要因はいろいろあったが、多発する洪水も大きかった。大正末に北海道庁道路課長が刊行した『北海道道路難概要』に、当時の状況が記されている。
—森林の乱伐で水源かん養地が荒廃し、それにともなって洪水が年々増加したことが、大正期は顕著に現れた。橋は流れ出し、道路は壊された— (原文を要約)
*参考資料/新北海道史第五巻通説四より
牛朱別川跡地にロータリー完成
旭川市では、牛朱別川の切り替えで廃川となった跡地は埋め立てられ、昭和11年にロータリー交差点が完成した(旭川常盤ロータリー)。ここから6つの市道や国道が分かれ、『旭橋』や『平和通買物公園』などに通じるなど、市内中核部をつなぐ役割を担い、旭川のシンボルになっていった。
同時期に、老朽化が進んだ旭橋の架橋位置も決定し、昭和7年に架け替えが完了、渡橋式が盛大に行われた。
*参考資料/石狩川上流河川整備計画、旭川開発建設部「旭橋の歩み」より
  • 昭和11年、常盤広場(ロータリー)完成 昭和11年、常盤広場(ロータリー)完成

    (旭川市蔵「旭川市のあゆみ」より)

  • 昭和7年の旭橋渡橋式 昭和7年の旭橋渡橋式

    (旭川開発建設部蔵)

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