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開拓初期:千歳川流域-暮らし・社会【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

開拓初期(明治初期~明治42年頃) 千歳川流域 暮らし・社会

  • タイトル

〈開拓初期の開墾の状況〉

成立間もない明治政府は、開拓使が受け持つ地域以外を、志願する藩などに分領支配させた(明治2~4年8月まで)。夕張、勇払、千歳は高知藩(旧土佐藩で現在の高知県)が一時的に支配した歴史を持つ。高知藩は、大工や農夫などを千歳と恵庭に移住させ、水稲も試作したという。蝦夷地開拓は、幕末の志士・坂本龍馬の夢でもあった。
千歳は明治13年に戸長が置かれ開基し、北広島は明治27年に月寒村から分村し、明治30年には恵庭が千歳から独立し、それぞれ現在の基礎を築く。明治11年、屯田兵が入地して江別は開基をむかえた。江別は、屯田事務局がある札幌のとなりに位置し、空知の2つの集治監の脱獄者の備えにもなることから、江別太地区(江別屯田。現・緑町)に10戸、14年に篠津太に養蚕(ようさん)経験者を含めた19戸、17年に江別屯田に75戸、18年に江別、篠津、そして野幌に211戸などが入植した。
*参考資料/江別の屯田兵(江別市)

越後人の野幌開拓

元士族達の反乱のひとつ「萩の乱」で終身刑になった新潟県人の大橋一蔵(おおはしいちぞう)は、獄中から北海道開拓を願い出て、許されて近親者等とともに江別太(通称・越後村)に明治19年入植した。大橋は、新潟県長岡町に本社を置く「北越植民社」という会社を創立した。越後農民を北海道に移住させて開拓を進めることで、戊辰戦争で敗戦した長岡の復興を目指した。明治に入って急速に日本は近代化されたが、一方で農民の暮らしは苦しさを増していた。このため、新天地・北海道を目指す者が増えたのだ。
北越植民社は北海道開拓の成功例のひとつで、空知の月形や十勝の音更も対象にしたが、一番成果を上げたのは江別の野幌地区だった。有志達は「北越植民社が渡航の世話や、20カ月分の食料を貸し与えてくれる」と、郷土で移民を募集してまわり、その甲斐あって、明治23年には戸数は135戸に上った。最初から馬を使って機械耕作をし、「森林伐採はかんがい用水の枯渇につながる」と、野幌原始林の保護を訴えるなど、先を読む目を持っていた。
*参考資料/新江別市史
  • 野幌北越殖民社、明治末 野幌北越殖民社、明治末

    (北海道大学附属図書館蔵)

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