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開拓初期:千歳川流域-交通2【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

開拓初期(明治初期~明治42年頃) 千歳川流域 交通

  • タイトル

唯一の内陸路・シコツ越え

場所請負制のあった江戸時代、石狩と勇払(苫小牧)をむすぶ交通路は、よく使われていた。
船で勇払川から美々川を上り、千歳の美々地区に上陸して、千歳川へとむかう。ここに二里の陸路があった。その後は船で千歳川から石狩川を下って石狩に達する。「美々~千歳間」をむすぶ陸路は、「シコツ越え(千歳越え)」あるいは「勇払越え」などと呼ばれ、場所請負人の山田屋文右衛門が開削したとされ馬車が通ることもできた。後の札幌本道(現・国道36号)のもとにあたる。当時は、道路建設に官費は投入されず、場所請負人が自費で建設し、幕府は銀貨をほうびとして渡したという。幕末の千歳付近は、「カマカに番屋、蔵、弁天社があり、千歳川会所前には古い船板を渡した橋がある」など、松浦武四郎の「再航蝦夷日誌」に記されている。

道内最古の島松駅逓所

明治14年、明治天皇が視察のために渡道し、 札幌本道(現・国道36号)沿いの島松行在所(しままつあんざいしょ。天皇の仮宮)で昼食をとられた。札幌本道の開通にともなって設置された島松駅逓所のことで、もともとは「寒冷地稲作の父」と呼ばれる中山久蔵の家で、明治17年から中山が経営にあたっていた。駅逓は北海道独自の制度で、駅舎と人馬を備え、宿泊と運送の便をはかるため、道路沿いなどに設置された。行幸を機に平屋建ての家屋に新築され、当日は垣根や大きな門も施されて、おむかえしたという。
また駅逓のかたわらには、ウイリアム・スミス・クラークの記念碑も建っている。札幌農学校(現・北海道大学)の初代教頭・クラーク博士は明治10年に帰国するが、島松駅逓所まで見送りにきた学生達に「ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ大志をいだけ)」という名言を残した。華やかな歴史に彩られた「旧島松駅逓所」は、現存する道内最古の駅逓で国指定史跡である。
  • 広島村字島松御昼所記念碑、明治末? 広島村字島松御昼所記念碑、明治末?

    (北海道大学附属図書館蔵)

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