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開拓初期:石狩川上流域-暮らし・社会【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

開拓初期:石狩川上流域-暮らし・社会【札幌開発建設部】治水100年

  • タイトル

〈開拓初期の開墾の状況〉

開拓使は上川開拓のため、明治5年に役人だった高畑利宜(たかばたけとしよし)を上川へ検分させた。翌6年からは、お雇い外国人のジェームス・R・ワッソンを測量長に、わが国初の三角測量が行われた。こうして世に明らかにされた上川地方は、「離宮計画」と屯田兵村の設置で開拓されていく。
明治23年に旭川、神居、永山が置かれ、明治24年永山に、25年東旭川に、26年には当時は永山だった当麻に各400戸の屯田兵が入植した。また25年は、石狩川右岸一帯が鷹栖に設定された。明治33年には当麻が独立、東川は28年に香川県、富山県、愛知県などの団体移住で開村した。愛別も同年に和歌山県、岐阜県、愛知県からの団体移住があり、明治30年に開基した。明治32年に鉄道の十勝線(現・JR富良野線)「旭川~美瑛間」が開通し、美瑛原野の開発が進み、33年に神楽村(現・東神楽)から独立した。また明治39年に比布が鷹栖から独立した。

ワッソンの三角測量

お雇い外国人のジェームス・R・ワッソンは、明治6年、石狩川の150から200マイル上流に広野があると聞き、そこを三角測量の基線にしようと、札幌の篠路から船で出発し、深川からは急流のため丸木舟に乗り換えてさかのぼった。上川に着くと近文山(ちかふみやま)に上って平原を見て、くわしく調査した結果、基線を設置するにはむずかしいことがわかり、札幌に戻った。
しかしワッソンは再度上川にむかう。石狩川と支川を調査するためで、天候に恵まれず完璧ではなかったが、測量距離は石狩川150里余、忠別川10里余で、近代的測量技術を用いた最初の試みになった。この結果は、「北海道石狩川図」として明治8年に製作された。
*参考資料/新旭川市史

幻の上川離宮計画

当時、会計検査院長だった岩村通俊は、高畑利宜の上川調査などから、「北京(ほっきょう)を上川に定める」という意見を明治15年、太政(だいじょう)大臣・三条実美(さんじょうさねとみ)に提案した。東京、京都、奈良とともに京を北の上川に誘致しようというもので、北海道開拓を上川を中心に進める目的だった。岩村は明治18年、永山武四郎等とともに近文山に上り、北京にふさわしいと確信する。そこには「国見の碑」が建てられている(旭川市指定文化財)。翌19年、岩村が働きかけた北海道庁が設置され、自ら北海道庁長官になって上川道路(現・国道12号。中央道路、北見道路)を整備した。その後「北京構想」は「離宮(りきゅう)計画」に改められ、第二代長官永山武四郎に受け継がれる。永山は美瑛川と忠別川間の神楽一帯を建設予定地に、皇室が所有する御料地(ごりょうち)に編入し、屯田兵の入植や雨竜の華族農場の開設などを進めた。しかし離宮計画は、札幌や小樽の経済界の反対や日露戦争の勃発などで夢と消えた。予定地には神楽岡公園がつくられ、上川神社が移設された。そこに建てられた「上川離宮予定地」の碑が、華やかなりし歴史を伝えている。
*参考資料/新旭川市史
  • 神楽岡の景(離宮予定地)、大正期 神楽岡の景(離宮予定地)、大正期

    (北海道大学附属図書館蔵)

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