明治43年頃:幾春別川流域-土地利用2【札幌開発建設部】治水100年
石狩川流域誌 支川編
明治43年頃(明治43年~昭和34年頃) 幾春別川流域 土地利用(農業・市街地)
土地改良風景と美唄湿原
泥炭地は低い湿地のため排水が悪いうえ、標高は12~13mで高低差も低く、深く掘り下げた明渠排水(地上の排水溝)が必要だった。さらに 各田んぼの排水を良くするために、暗渠排水(地下に土管を通す)も必要だった。美唄の泥 炭地は、立っていると足が土中に埋まり、その都度立ち位置を変えなければならなかった。また排水路を掘っても、つぎの日にはもう元に戻っているあり様だった。昭和20年後半から30年前半にかけて、収穫後に農家が暗渠排水路工事を行った。炭鉱員もアルバイトとして参加したという。
大正8年、美唄の茶志内原野に北海道農事試験場の泥炭地試験地が置かれた。泥炭地の水田の研究を行い、農業発展に大きく貢献した。現在、開発町南に広がる美唄湿原を試験地に、研究をつづけている(北海道農業研究センター美唄試験地)。美唄湿原は、かつて広大に広がっていた石狩湿原の希少な名残だ。
*参考資料/美唄市史、北海土地改良区八十年史
大正8年、美唄の茶志内原野に北海道農事試験場の泥炭地試験地が置かれた。泥炭地の水田の研究を行い、農業発展に大きく貢献した。現在、開発町南に広がる美唄湿原を試験地に、研究をつづけている(北海道農業研究センター美唄試験地)。美唄湿原は、かつて広大に広がっていた石狩湿原の希少な名残だ。
*参考資料/美唄市史、北海土地改良区八十年史
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美唄市堺町付近の北海土功組合のかんがい溝
(美唄市郷土資料館蔵)