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WEB広報誌 かいはつグラフ2009.10 かいはつアーカイブス

石狩川治水100年

石狩川治水の歴史が始まる

  • 設計図 岡崎文吉(おかざきぶんきち)博士が「石狩川治水計画調査報文」を提出する前に作成した対雁(ついしかり)生振(おやふる)間改修工事の設計図
明治の大洪水がもたらした惨状
 1898年(明治31)9月、石狩川に大洪水が発生します。
 神居古潭(かむいこたん)から下流の雨竜川、空知川、夕張川などの大きな支川も氾濫し、幅約40キロメートル、延長100キロメートルの湖が出現したとの記録があります。
 石狩川流域の死者は112人、流出倒壊家屋2,295戸と被害は甚大なものでした。
 折りしも1891年(明治24)から始まった北海道移住政策における勧誘活動が功を奏し、石狩川流域の開拓が軌道に乗り始めたばかり。苦労の末に切り拓かれた耕地のほとんどが濁水の下に沈んでしましました。
 この2年前の1896年(明治29)にも石狩川は氾濫を起こしており、その被害からようやく立ち直ろうとしていた矢先の大洪水。人々の絶望はあまりに大きく、郷里に戻った移住者も少なくなかったといわれています。
開拓の一大障害は、北海道治水方式の計画なきことなり
 洪水直後、北海道協会会頭の近衛篤麿(このえあつまろ)公は内務大臣に請願を提出します。
 「この開拓の進歩上に一大障害ありて存せり。すなわち北海道治水方式の計画なきことこれなり」治水事業が急務であることを願い出たのでした。
 これを受け1899年(明治32)北海道庁内に「北海道治水調査会」が設置されます。
 この調査会に広井勇(ひろいいさみ)、田邊朔郎(たなべさくろう)ら当時すでに土木の分野で大きな功績をあげていた技術者とともに26歳の若き北海道庁技官が委員に抜擢されされます。
 のちに「石狩川治水の祖」ともいわれるようになった岡崎文吉でした。
 岡崎は1872年(明治5)、岡山藩士族の長男として産まれました。
 明治の大改革により、岡崎家は禄を失い、岡崎の父は新天地をもとめ北海道に移住しますが、移住先での生活は厳しく、郷里に残した家族への送金はできなかったといわれています。
 没落士族の息子は勉学に励み、自ら道を切りひらくしかかなった時代。猛勉強のすえ、15歳で年齢を偽って札幌農学校工学科に入学、21歳の若さで札幌農学校助教授になったのち、1896年(明治29)に北海道庁に入庁します。
 その2年後、石狩川の大洪水を経験することになります。洪水で財産の全てを失い、悲嘆にくれた人々の姿は、厳しい自然に幾度となく打ちのめされていた父の姿と重なっていたのかもしれません。
 北海道治水調査会は1903年(明治36)に廃止されますが、その調査結果は岡崎文吉により「石狩川治水計画調査報文」としてまとめられ、今からちょうど100年前の1909年(明治42)10月、北海道庁長官に提出されます。
 ここから石狩川の治水の歴史が始まることになるのです。

※北海道協会 1893年(明治26)に設立された移住民の受入窓口
  近衛篤麿 (1863年(文久3年)-1904年(明治37年))
        第3代貴族院議長 公爵 長男は近衛文麿
    広井勇 (1862年(文久2年)-1928年(昭和3年))
       札幌農業大学工学科教授 東京帝国大学工学科教授 近代港湾整備の先駆者 
    田邊朔郎 (1861年(文久元年)-1944年(昭和19))
       京都帝国大学工学科学長、琵琶湖疎水の計画、工事を指導、日本初の水力発電事業も興す。
       北海道官設鉄道の建設にも尽力した。

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