マガジン 第3部「廃道から道路(みち)へ」
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第3部「廃道から道路(みち)へ」
国道4号線に編入された「軍事道路」は大正10年から昭和3年まで3回の測量を重ね、昭和5年にほぼ現在の改良路線設計が決まりました。
この時期(昭和初期)から徐々に自動車が普及しはじめ、鉄道だけに頼っていた小樽~札幌間に自動車が通れる道路が必要とされました。
かねてからの難所、小樽~銭函間は昭和6年から本格的な工事が進められ、3カ年の歳月を費やし、昭和9年に改良工事が完成しました。
これにより、小樽~札幌間は時間が短縮、勾配も緩和され比較的便利な道になったのです。
昭和26年には北海道開発局が設置され、翌年の27年には国道4号線は国道5号線と改められました。
自動車の交通量は増え続け、国道5号線の利用価値も高まってきたのですが、当時は砂利道であったため、 スムーズな交通が難しく、早急に全面舗装が必要とされ、開発局は昭和27年~30年までの間に小樽~銭函間の一部改良と最初の舗装工事を手がけたのです。
この時期(昭和初期)から徐々に自動車が普及しはじめ、鉄道だけに頼っていた小樽~札幌間に自動車が通れる道路が必要とされました。
かねてからの難所、小樽~銭函間は昭和6年から本格的な工事が進められ、3カ年の歳月を費やし、昭和9年に改良工事が完成しました。
これにより、小樽~札幌間は時間が短縮、勾配も緩和され比較的便利な道になったのです。
昭和26年には北海道開発局が設置され、翌年の27年には国道4号線は国道5号線と改められました。
自動車の交通量は増え続け、国道5号線の利用価値も高まってきたのですが、当時は砂利道であったため、 スムーズな交通が難しく、早急に全面舗装が必要とされ、開発局は昭和27年~30年までの間に小樽~銭函間の一部改良と最初の舗装工事を手がけたのです。
「札樽国道開通記念碑」

昭和9年に現路線に決まったことを記念したものだろうか、銘板はなく、建立の由来こそ確かめることはできないのですが、 「札樽国道開通碑」が張碓トンネル小樽側入口に建立されています。
※現在開通記念碑は、朝里の駐車帯(チェーン着脱場)に移設しています。
※現在開通記念碑は、朝里の駐車帯(チェーン着脱場)に移設しています。
Note

クロフォード像と小樽交通記念館
Joseph.U.Crawford(1842年~1924年)
アメリカ ペンシルバニア州生まれ
同地大学卒業
同地大学卒業
幌内鉄道建設の功労者
南北戦争中(1861~1895年)は北緯大尉として野戦の土塁構築に従事し、戦後、パシフィック鉄道やペンシルバニア鉄道技師として、鉄道建設について十分の経験を積む。
1878年~1882年の間、開拓使に招かれ幌内鉄道の建設に力をそそぎ帰国。