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幣舞橋ライブラリー

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幣舞橋のあゆみ~五代・115年にわたる歴代の橋の歴史と特徴

民営「愛北橋」 明治22年(1889)~明治31年(1898)
 江戸時代以来、交通と物流の大動脈であった釧路川を越えるには、渡船によるしか方法がなかった。料金は明治7年に人間が1銭、牛馬が2銭だったものが、同14年に はそれぞれ3銭と6銭に、大きく値上がりしている。
 そんな釧路川に最初に架けられた橋は、名古屋に本社を持つ商事会社「愛北物産」が自費で架橋・運営した有料橋の木橋「愛北橋」。
 幅3.6m、長さ216mと当時の全道一の規模であった。
 しかし、わず か9年で橋は倒壊、再び渡船に。
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初代「幣舞橋」 明治33年(1900)~明治42年(1909)
 人口が増え続け、町制がしかれて釧路町となったこの年、ようやく官設による橋が、地域の名を取って「幣舞橋」として架けられる。
 幅4.2m、長さ203mで、やはり木造橋であったため、増水による上流からの流木や、冬場の結氷や流氷によって、わずか9年で倒壊してしまった。
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二代目「幣舞橋」 明治42年(1909)~大正4年(1915)
 初代幣舞橋が倒壊したその年のうちに、新しく架け替えられたのが二代目幣舞橋。
 渡り初めは11月3日の天長節(天皇誕生日)に行われた。全長は初代と同じ203m、幅4.5mの木橋であった。「簡易トラフ」と呼ばれる木組みを11連つなげた簡単な構造であったため、大正2年から3年にかけての冬の結氷や流氷の衝突、春の増水による流木の衝突などが続き、建設からわずか6年と、初代よりさらに短命であった。
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三代目「幣舞橋」 大正4年(1915)~大正13年(1924)
 幣舞橋としての三代目にあたり、長さは201m。やはり木橋ながら幅7.2mと旧橋の二倍近い幅員があったが、四代目の仮橋が完成するまでのたった9年間しか利用されなかった。
 しかし、この時期は一次大戦前後の好景気により釧路町の人口が増加を続け、大正11年に町から市へと昇格した。
 また、釧路駅が現在の幸町から現在地に移転したのは大正6年のことであった。
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四代目「幣舞橋」 昭和3年(1928)~昭和50年(1975)
 初の永久橋として約4年の歳月をかけて完成。札幌の豊平橋、旭川の旭橋とともに「北海道三大名橋」と称された。道内でも初めての鉄筋コンクリートが使用され、優雅なアーチを描くヨーロッパ風のデザインは、頑丈なだけでなく美しさも兼備しているとして高く評価された。全長は両岸の埋め立てにより113mと半減したが、幅員は三代目のさらに2.5倍の18.3mに。
 初めて歩道と車道が分離され、車道も片側2車線となった。戦前・戦中・戦後を通じ、その荘重で優美なデザインから長く市民に親しまれた名橋だった。
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五代目「幣舞橋」 昭和52年(1977)~現在
 架橋後50年を経過した橋の老朽化とラッシュ時の交通渋滞を緩和するために、新橋の設計に着手した。
 市民参加でイメージを討議、親柱やアーチ型など先代の面影を残しながら、機能性と芸術性に配慮した新しい試みを採用した。
 橋の高欄のデザインは釧路市の彫刻家・米坂ヒデノリ氏によるハマナスをモチーフとした模様「花に囲まれた道」を採用した。
 橋脚上には日本を代表する4人の彫刻家が製作した裸婦立像「道東の四季」を設置した。
◆「春」/ 船越保武・製作「若葉が萌えいずる雪解けの季節」
◆「夏」/ 佐藤忠良・製作「さわやかな風を受けて羽ばたく若々しさ」
◆「秋」/ 柳原義達・製作「迫りくる厳しい冬に立ち向かう精神と緊張感」
◆「冬」/ 本郷 新・製作「寒さと冬をはねのけて春を待ち望む心」
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幣舞橋について

 幣舞橋の「幣舞」とは、この地域の名称であり、アイヌ語で「ヌサ・オ・マイ」(幣場の・ある・ところ)を語源とする説があります。
 幣場とは、神を祀るためのイナウ(木幣)を立てて並べ、祭祀などの儀式を行う場所のことです。歴代幣舞橋の中でも、およそ半世紀近い長い間にわたって釧路市民に親しまれ続けた四代目幣舞橋は、最もドラマチックで激動の時代を生き抜いた伝説の名橋でした。
 建設工事が始まったのが大正14年だったために、建設が始まってすぐに時代も大正から昭和へと変わり、二次大戦中には米軍機の格好の標的となり、機銃掃射によって鉄骨が穴だらけになったばかりでなく、親柱も吹き飛ばされてしまいました。
 昭和27年には十勝沖地震の津波にも襲われましたが、その後も20年以上も持ちこたえました。

文学や歌に読まれた幣舞橋

 明治41年、小樽から釧路の新聞社に招かれたのが「流浪の天才詩人」石川啄木。
 「さいはての 駅に降り立」ってから下宿へ向かう途中に渡った真冬の幣舞橋は、倒壊直前の初代幣舞橋でした。
 啄木の釧路滞在はわずかに3ヶ月足らずでしたが、釧路新聞(現在の北海道新聞)のコラムに掲載された「傾きかけしあやふさに・・・・」で始まる幣舞橋の詩は、彼が作者ではないかと言われています。
 翌々年の43年には「不如帰」(ほととぎす)で知られる作家・徳富蘆花が釧路を訪れ、幣舞橋(二代目)を渡った時の感想を、随筆に記しています。
 また、昭和に入っても、釧路出身の女流小説家・ 原田康子のデビュー作となった「挽歌」の舞台となったことから、その名が全国に広がりました。
 昭和40年代になると、「霧」「北国」「港町」というキーワードがそろっていることから、たびたび歌謡曲にも取り上げられるようになりました。
 美川憲一の「釧路の夜」を筆頭に「霧の幣舞橋」や「夜霧の釧路」など、特にムード歌謡曲と呼ばれる歌が多く、数々のヒット曲も生まれました。
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お問合せ先

道路計画課

  • 住所:釧路市幸町10丁目3番地
  • 電話番号:0154-24-7268
  • ファクシミリ:0154-24-6791

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