近代北海道の始まり-開拓使設置し農地開拓など推進

札幌本庁舎の写真

北海道の開拓は維新後の最重要課題

1869年 (明治2年)、太政官布告により「蝦夷地」を「北海道」と呼ぶことが決まり、開拓使を設置しました。150年以上におよぶ「北海道」の始まりです。当時の日本は開国したばかりで、欧米の大国に対抗するため、産業を育成し、軍事力を強化するという「富国強兵」が政策の柱でした。近代化の原動力として、豊富な天然資源が眠る北海道開拓は国家の最重要課題でした。

開拓の主役は、明治維新などで失業した士族でした。そして、樺太の所有をめぐりロシアとの関係が悪化していたことから、樺太への中継基地にもなる石狩平野の開拓が重視され、政府は開拓使本庁舎を札幌市に置くことに決め、1873年 (明治6年) に札幌本庁舎(本府)が完成しました。

しかし、当時の北海道は原生林が生い茂り、近代化のためには、土地の開墾や道路や水路などの工事が不可欠でした。これらの事業を開拓使は一手に担い、欧米から招いた多くの技術者・専門家から、技術や知識を学びながら開拓事業を邁進しました。また、道路や治水事業の貴重な労働力として多くの囚人が全道各地の現場で作業にあたりました。

稲作と産業育成に大きな成果

北海道開拓の最大の目標は農地の開拓による稲作の実現でした。農地開拓の担い手は当初は士族でしたが、その後1875年 (明治8年) から始まった「屯田兵」制度による集団移住が北海道の農地開拓を飛躍的に加速させました。

明治20年代には、開墾地は石狩川を遡るように上流へ拡大。道路や鉄道も、石狩川流域を中心に延び、上川地方にむかって進みました。開墾地では水田に欠かせない「水」を確保するためのかんがい施設が各水系に作られていきました。今、全国的なブランドとなった北海道の米の発祥は、開拓使のたゆまない取組にあります。

開拓使のもう一つの功績は産業育成です。1876年 (明治9年) には、札幌農学校と開拓使麦酒醸造所が設立され、現在の北海道大学、サッポロビールに至るまでの1世紀を超えて、道内外の産業振興に大きな役割を果たしました。

札幌市の街づくりの先駆者-島義勇

銅像の写真

開拓の歴史を振り返ったときに欠かせない人物として佐賀藩士・島義勇がいます。島は開拓使主席判官として開拓使本府建設を立案し、札幌市の街づくりの先駆者と言われています。島は任命後、現在の北海道神宮付近の丘に上り、眼下に広がる札幌の原野をいつの日か世界一の街に、と夢を描き「他日五洲第一の都」という漢詩を残しています。でも、維新政府との軋轢により1年ほどで解任され、北海道を去り、その後「佐賀の乱」で明治7年に処刑されます。島の銅像は北海道神宮と札幌市役所に設置されています。夢を描いた時から150年。100万都市となった札幌市を見て何を思っているのでしょうか。