樺太・サハリン交流のシンボル-稚内港北防波堤ドーム

稚内港北防波堤ドームの写真
古代ローマ建築風の形状が青空に映える

「荒ぶる波が人々を襲う」

樺太 (サハリン) と稚内市。この50キロメートルにも満たない距離に横たわる宗谷海峡の荒ぶる波と苛酷な自然環境は、船で行き交う人々にとって恐ろしいものでした。海の玄関口・稚内港は、日露戦争後の明治38年に樺太の南半分が日本の領土となってから、樺太との連絡港とし活用された港です。大正9年に本格的な築港工事が始まり、大正12年には樺太の大泊との間に稚泊航路が開設されました。昭和元年には北防波堤と岸壁が完成しました。

しかし、当時の防波堤は高波を防ぐには不十分で、強風が吹くと波が防波堤を越えて船の発着場まで飛び、乗船客にとっては決して安全な場所でありませんでした。そこで、稚内港を高波と強風から守るために建設されたのが北防波堤ドームです。

「スケッチと、1人の若者と」

半アーチ型の北防波堤ドームを設計したのは、現在の稚内港湾事務所に着任したばかりの若手技士・土谷実氏です。当時の事務所長の平尾俊雄氏がスケッチしたアーチの構想を実際に建設できるように設計しました。わずか2カ月で設計を終え、昭和6年4月に着工することになりました。

前例のない構造を形にするため、工事でさまざまな工夫を凝らしました。コンクリート打設では、幅12.1メートルの木製型枠を2基作り、それを移動させながら作業を進める工法を採用しました。また、支柱の基礎工事では、スチームハンマーという大型機械で約700本のコンクリートの杭を打ち込みました。

昭和11年、長さ424メートル、高さ13.6メートルの北防波堤ドームが完成しました。岸壁には稚内と樺太を結ぶ連絡船がつながれ、13年には鉄道がドームの前まで延長されました。終戦とともに稚泊航路はなくなり、ドームもその役割を終えました。その後は資材置き場などに利用されましたが、昭和50年代に入るとコンクリートが剥がれ落下するなど危険な状態になりました。北海道開発局では、地元からの保存要請にこたえ、昭和53年から原型どおりの改修復元や耐震補強などに取り組みました。

当初の建設から85年の歳月が流れた北防波堤ドーム。平成13年には北海道遺産に、15年には土木遺産にも指定されました。北防波堤ドームは稚内のシンボルとして市民や多くの観光客から親しまれ、にぎわいと交流の場となっています。

最北端の地に古代ローマの影 ?!

北防波堤ドームの写真

北防波堤ドームに訪れたことのない人でも、古代ローマ建築を思わせるこの施設をテレビや映画、雑誌などで見たことのある人は多いでしょう。地元では市民の憩いの場やイベント会場としても活用されています。時代を超えて人々を見つめてきた北防波堤ドーム。これからの時代の新たな活用が期待されます。