日本最初の国際貿易港―函館港の変遷と進化

港の写真
徒歩で駅や市街地へ。クルーズ船が寄港する若松地区。

天然港の開港から近代化へ

18世紀半ばから松前藩の交易拠点となっていた「箱館」の港が、安政5年「安政五カ国条約」の発効で、国内最初の国際貿易港として世界に開かれました。

函館は、もともとの湾の形状から「巴港 (ともえみなと)」「綱いらずの港」と呼ばれる天然の良港があったことにより経済発展を遂げましたが、大正13年に函館市長に着任した内務官僚の佐藤孝三郎は「天然の好地形が逆に人工的設備の発達を遅延している」と指摘。集中的な整備が進む小樽港に追い抜かれる危機感を持っていました。

昭和3年から5カ年で実施した「第2期函館市営改良」では、北洋漁港基地となる西浜町 (現西ふ頭) の岸壁を整備し、貯木場や貯炭場となる海岸町を埋め立てました。

開発局発足で港湾施設整備が加速

戦後、函館港の整備は、北海道開発局が中心となり進められました。まず、戦時中に埋め立てが中断していたマイナス9メートル岸壁を備える中央ふ頭の整備を再開、33年度に竣工させました。

昭和45年度には北ふ頭を完成させ、46年度には中央ふ頭を拡張、49年度には万代ふ頭が完成、56年度には豊川ふ頭、海岸町船だまりを相次いで整備。平成3年度には港内最大となる18.5ヘクタールの港町ふ頭に着工、14年度にマイナス14メートル岸壁を供用しました。

防波堤などの外郭施設は、昭和29年9月に北海道に大きな被害をもたらした洞爺丸台風の翌年度から西防波堤のかさ上げなどに着工します。45年度には北防波堤のかさ上げ・延長も完了。平成12年度には島防波堤が完成し、現在の函館港を形づくりました。30年には、JR函館駅近くの若松地区でマイナス8メートルのクルーズ船新岸壁を暫定供用しました。かつて青函連絡船が発着していた地区を再整備し、函館港の新たな魅力を創出しています。

道内随一のクルーズ船寄港地となった函館港。新型コロナウイルス感染拡大の収束を見据えて、これまでも造船不況、北洋漁業衰退などの危機を乗り越えてきた港町の挑戦はこれからも続きます。

おいしいのには理由がある-函館の魚・イカ

イカの写真

函館といえばイカですが、食卓に上るのは主に2種類。ヤリイカとスルメイカです。ヤリイカは、浅い海に生息し、身が薄く柔らかいため、特に刺身用として珍重されています。スルメイカは、肉厚で刺身から珍味加工まで幅広く、函館では「真イカ」と呼ばれています。東シナ海などで生まれたスルメイカは、餌と適水温を求め北上、成熟する6月以降に津軽海峡付近を回遊します。産卵のため南下する際にも再び津軽海峡を通過するので、漁期が12月までと長いのも特徴です。近年、不漁が続くスルメイカですが、活イカの透き通った刺身は絶品です。

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