フロンティアの大地を拓く―北海道開発庁発足

北海道開発庁庁舎の写真
発足した当時の北海道開発庁が入居した庁舎

昭和20年8月、終戦を迎えた日本は、戦災による産業活動の停滞や食糧難、復員者らによる急激な人口増など、緊急かつ重大な課題を抱えていました。戦災からの復旧・復興は国の最優先課題でした。その時にクローズアップされたのが北海道でした。

復興に向け北海道開発に期待

政府は、戦災から立ち上がるために、北海道の豊富な資源や広大な国土を活用することを決め、開発を進めることとしました。しかし、開発を進める上での羅針盤となる計画と、それを着実に実行する国の行政組織が存在していませんでした。

北海道総合開発計画策定を規定した「北海道開発法」が昭和25年に成立しました。そして同年6月1日には、総理府の外局として北海道開発庁が誕生しました。この時期、中央省庁に地方の固有名詞を付けた行政機関が誕生するのは初めてのことです。北海道がフロンティアの大地として大きな期待が寄せられていたことがうかがえます。

この時の組織体制は、北海道開発庁長官以下、次長 (後に事務次官)、企画室 (主幹)、庶務課、地政課、水政課、農林水産課、経済課で構成し、定員は31人。霞ヶ関の省庁の中では一番小さな組織でした。

中央省庁再編に伴い「北海道局」に

発足後、北海道開発予算の増加に伴って、定員の増加と組織新設が進みました。昭和35年には港湾・空港業務の拡大に対応して港政課が設置されました。平成10年には、北海道開発庁がアイヌ文化の振興と伝統などの知識の普及啓発に関する法律を所管する官庁となったため、アイヌ施策室が設置されました。この時期の定員は約90人。発足から半世紀余りを経て約3倍の組織に成長しました。

平成13年1月には、中央省庁再編に伴い、北海道開発庁は新設された国土交通省に移行し「北海道局」となり、再編前と同様の業務を担い、現在に至っています。

発足当時の思い出-堂垣内氏と中川氏

発足時、北海道開発庁は、霞ヶ関の省庁の中で最も小さな組織でしたが、職員は、フロンティアの大地を拓くという使命感にあふれていました。当時の職員には後に北海道知事になる堂垣内尚弘さんと、農林水産大臣を務めた中川一郎さんがいました。当時の思い出を堂垣内さんは、北海道開発庁50年史で次のように語っています。

「仕事が終わると先輩達と新宿西口や新橋に繰り出しました。特に中川さんとは熱烈な開発議論をして一晩飲み明かしたこともありました」。その時から70年。雲の上から今の北海道開発を見守りながら飲み明かしておられることでしょう。

イラスト
堂垣内尚弘さん (左) と中川一郎さん (右)