北海道を豊穣の大地に-泥炭を克服した篠津地域泥炭地開発

篠津運河の写真

全国でも有数の米どころに変貌

全国でも有数の米どころである石狩・空知地方。でも70年ほど前は、泥炭を土壌とする原野が広がる不毛の大地でした。

冷涼な北海道では、植物が完全に分解されず、それが幾重にも重なる「泥炭地」が広く分布しています。 泥炭は多くの水分を含むため、排水路を作っても浮き上がってしまい機能不全に陥ります。しかし、農地として拓くには排水を良くすることが不可欠。篠津地域の農地開発はこの苦労を幾度も繰り返す泥炭との長い闘いの歴史でもあったのです。

石狩・空知地方に水田開発の白羽の矢が立ったのは、温暖で、平坦な土地が広がり、何よりも石狩川という大水源が流れているという地理的環境が要因ですが、問題は泥炭です。篠津地域の開発事業は①土中の水を排水する②水田に水を運ぶ③泥炭層の下にある泥を客土として活用する-という三つの事業がセットで進められました。

最新の技術と機械導入し難工事を遂行

事業の核となったのは総延長23キロメートルにもおよぶ用排水路「篠津運河」です。昭和31年 (1956年)、農業土木史上、例のない泥炭地開発の大規模プロジェクトが稼働します。当時、多くの現場は人力が主でしたが、この工事では、ポンプ浚渫船による掘削やポンプによる送泥客土、湿地用ブルドーザーなど、最新式の機械が導入され、表層の泥炭を削り取るラダーエキスカベーターという巨大な機械は、軟弱地盤のため軌道を敷設し移動するという画期的な仕様でした。

篠津運河に石狩川の水を導き入れるための石狩川頭首工、当別川上流に設けた青山ダムの建設など、水路と併行して用水確保のための施設の整備も進みました。軟弱な泥炭地という最悪の条件の中で、さまざまな困難に直面しながらも、そのたびに新しい工法が生み出され、新しい機械が試作されました。そしてプロジェクトは昭和46年に完結し、石狩川右岸に1万1,000ヘクタールにおよぶ水田地帯が誕生しました。

今、北海道の米は全国的なブランドとなりました。でも、ブランドとなり得たのは、不毛の地を豊饒の大地とした農地開発と、そして美味しいお米をつくるために日々土づくりや品種改良を続けてきた農家と研究機関という、多くの先人たちのたゆまない取組があったことを忘れてはなりませんね。

札幌市がまるごとすっぽり-味だけではなく広さも

実った稲穂の写真

石狩・空知の耕地面積は水田を中心に16万ヘクタールもあり、全道の約14%を占めています。この面積、広すぎてよく分かりませんね。例えば札幌市10区の総面積は1,121平方ロメートルです。耕地面積を平方ロメートルに換算すると、1,600平方キロメートル。札幌市がまるごと収まって、なおかつおつりが出る面積です。広い !