国際舞台を支えたエンジニアたち-冬季オリンピック札幌大会

宮の森ジャンプ台の写真
日本人選手が表彰台を独占した宮の森ジャンプ台

昭和47年2月、アジアで初めての冬季オリンピックが札幌市で開催されました。開催に向けて、市内では、競技施設に加え、地下鉄や道路などのインフラ整備が一気に進み、札幌市は国際都市「SAPPORO」の仲間入りを果たしました。

一気に進むインフラ整備

札幌市でのオリンピック開催が決まったのは昭和41年にローマで開かれた第64回IOC総会。決定後、6年後の開催に向けてインフラ整備が重点的に進みました。選手村のある真駒内と札幌市中心部を結ぶ地下鉄南北線は46年に開業。同年11月には「ポールタウン」と「オーロラタウン」から成る「札幌地下街」がオープンしました。

道路整備も一気に進みました。日本道路公団 (現:東日本高速道路株式会社) は、札幌-千歳間と札幌-小樽間の高速道路を整備し、北海道開発局は札幌新道や国道36号、創成川通など、北海道や札幌市も南郷通や環状通などの街路事業を進めました。

一気に集中する工事を円滑に進めるため、国、北海道、札幌市の担当者や学識経験者ら26人がメンバーとなり、道路小委員会が設置され、委員長は高橋敏五郎北海道建設業信用保証社長が務めました。彼はあの「弾丸道路」建設の際、札幌開発建設部の部長として陣頭指揮を執った人物でした。オリンピックという国家的事業に工事の遅れは決して許されません。資機材不足と価格の高騰など多くの課題に直面しますが、「日本初の冬季オリンピックを成功させよう」という、熱い思いを持った各界のプロフェッショナルが課題をクリアし、無事開会を迎えます。

営繕部が大倉山ジャンプ競技場を大改造

オリンピック関連施設を整備・監理した北海道開発局営繕部も重要な役割を果たしました。90メートル級ジャンプの舞台となった大倉山ジャンプ競技場は、昭和6年に60メートル級ジャンプ台として整備されましたが、オリンピックを前に90メートル級に改修されます。工事は、北海道開発局の営繕事業として昭和43に着工。これまでの大倉山ジャンプ競技場は、アプローチの上部に気流の乱れがあり、必ずしもコンディションのよい競技場ではなかったと言われていました。そこで、ジャンプ台を7メートル掘り下げ、造り直すという大改造が行われ、昭和45年には、5万人を収容する世界でも有数のジャンプ競技場として生まれ変わりました。オリンピック以降も世界的な公式試合が行われ、世界のトップジャンパーたちによる新たな記録が生み出されています。

昭和47年2月6日。70メートル級ジャンプで笠谷幸生さんら3人の日本人選手が表彰台を独占します。「日の丸飛行隊」とも呼ばれた選手の活躍に、日本列島は歓喜の渦に巻き込まれます。大会を支えた「土木と建築の戦士たち」も間違いなく歓声を上げ、成し遂げた仕事に誇りを感じていたはずです。