マガジン 第2部「山側への新たな道~軍事道路~」
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第2部「山側への新たな道~軍事道路~」
明治37年日露戦争が起きた際に、小樽が海上から敵艦の攻撃を受けた場合、後方連絡道路が必要であるという理由から、小樽・銭函間に新たな道路が築設されることになり、朝里~神威古潭間の一部が開設されました。
翌38年は予算の削減で継続工事が危うくなったのですが、小樽側の熱心な要望もあり、辛くも同年中に工事が終了し、通称「軍事道路」と呼ばれ、小樽~札幌間の連絡道路となったのです。
しかし、勾配・カーブがきつかったこの道路は、大正9年に国道(国道4号線)へ編入されたものの、実際は車馬運行が不可能な状態であったため、利用するものが極めて少なく、廃道に近い姿だったのです。
その路線は竜徳寺前から深く山背を迂回し、毛無山の鞍部を超え、朝里平野の奥地に出て、さらに石倉山の峠を越え、張碓平野に抜け、銭函で旧道に連なるものでした。
翌38年は予算の削減で継続工事が危うくなったのですが、小樽側の熱心な要望もあり、辛くも同年中に工事が終了し、通称「軍事道路」と呼ばれ、小樽~札幌間の連絡道路となったのです。
しかし、勾配・カーブがきつかったこの道路は、大正9年に国道(国道4号線)へ編入されたものの、実際は車馬運行が不可能な状態であったため、利用するものが極めて少なく、廃道に近い姿だったのです。
その路線は竜徳寺前から深く山背を迂回し、毛無山の鞍部を超え、朝里平野の奥地に出て、さらに石倉山の峠を越え、張碓平野に抜け、銭函で旧道に連なるものでした。