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流域のあゆみ

流域のあゆみ

暮らしを脅かした洪水の歴史

川と共に歩んだ人々と洪水の歴史
昭和37年8月洪水
昭和37年8月洪水
 後志利別川は流域に豊かな潤いをもたらす一方、過去に幾度も洪水を引き起こし、人々を苦しめてきました。なかでも昭和4年8月の大洪水は流域に甚大な被害をもたらし、これを契機として本格的な治水事業がスタート。昭和9年の低水路工事を皮切りに、堤防整備や捷水路工事(ショートカット工事)などの治水事業が繰り返し展開され、少しずつ安全性が高められてきました。しかしながら、水害への備えは未だ万全ではなく、より安心できる暮らしのために、防災力の向上が急務となっています。
大雨のたびに氾濫した昔の後志利別川
昭和50年8月洪水
昭和50年8月洪水
 昭和4年(1929年)の大洪水の記憶も生々しい昭和7年夏、北海道では台風から変わった温帯低気圧の襲来が7度に渡り、大雨による被災が相次ぎました。後志利別川も同様で、流域の北檜山町史にも8月31日から9月1日にかけて、豪雨による河川の氾濫被害等惨禍が相次いだと伝える記述が残されています。
困難を極めた初期の治水工事
 相次ぐ水害を受け、やっと本格的な治水工事が始まったのは昭和9年(1934年)です。しかし、まだ機械化のされていない当時、その作業は苛烈を極めました。ところがこの第1期工事の終わった昭和13年(1938年)以降終戦まで、戦争という非常事態の中改修工事は中断してしまいました。その間も水害は毎年のように繰り返され流域住民を苦しめました。
終戦後始まった本格治水工事
 戦後も昭和28年(1953年)、36年(1961年)、37年(1962年)と度々大きな氾濫が起きています。中でも昭和37年8月はアベック台風(9・10号)と言われた台風が渡島半島を通過し堤防の決壊による大氾濫や鋸橋の流失など流域に大被害を与えました。以後、河川改修が本格的に進められましたが、昭和41年(1966年)8月、42年2月、45年9月、48年8月、50年8月、52年8月、54年3月、56年8月、60年9月、平成元年(1989年)8月と洪水が発生しています。
  • ■流域を襲った主な洪水の爪痕 ■流域を襲った主な洪水の爪痕

    ※流量は氾濫量及び美利河ダムによる調節量を戻して算出した値

  • 河道の変遷 河道の変遷

川を治める人々の英知、治水の歴史

屈曲した河道の改修が河の流れを穏やかに
 たび重なる洪水の被害と沿川開拓の進行による農耕地の拡大で、明治時代後半から治水事業の必要性、緊急性が高まります。しかし、後志利別川の治水事業が始まったのは大正4年(1915年)の水位・雨量の観測からでした。
 その後、昭和4年(1929年)洪水を期に昭和9年河川法の適用河川となり、この時初めて本格的な河道の整備を伴う改修工事が始まりました。ところが、戦争などにより昭和22年(1947年)まで工事は中断されてしまいます。
もろい自然堤防を整備し安全な堤防が連なるように
 終戦を迎え、昭和23年に工事は再開、掘削・築堤工事が進みました。やがて新河川法の制定で(昭和40年)水系一貫の河川管理態勢が整います。後志利別川は、昭和43年一級河川の指定をうけ、一方、流域の発展と都市化の進行に伴う防災の要求に応えるため、一層高い安全度の目標に向け、堤防やコンクリートブロックによる護岸など、治水施設の建設が実施されました。
洪水のないくらしと地域発展の期待の下、美利河ダム完成
 後志利別川の安全度を高めるため進められた浚渫や河道掘削、築堤強化の河川改修工事により、洪水の危険性は減少しました。しかし、川の水の水量が急激に上がる大雨に対する対策は十分とは言えませんでした。そこで一層の安全度の向上を計るため、昭和44年(1969年)の河川審議会の審議を経て、美利河ダムの建設が進められることとなりました。平成3年(1991年)に完成した美利河ダムは流域の安全に大きく貢献しています。また、多目的ダムとして農業用水の供給に加え水力発電(発電最大出力4,000kw)への活用が計られたほか、緑地、運動公園をはじめとするダム周辺環境の整備に見られるように、地域の活性化にも大きな役割を果たしています。

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