開拓初期-交通1【札幌開発建設部】治水100年
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石狩川流域誌
開拓初期(明治初期~明治42年頃) 4交通
交通路としても重要だった石狩川
川が唯一の道だった
鉄道や道路がなかった当時、川を交通路に人々は移動し、物資や農作物を運んだ。石狩平野は開拓の中心地域だったので、石狩川は交通路としても重要だった。開拓使が札幌に置かれると、物資は石狩川の河口から遡って、フシコサッポロ川(現在の伏古川)などを経由して、札幌中心部まで運ばれた。
明治14年に、現在の月形町に『樺戸集治監(現在の刑務所)』が設置されると、集治監に囚人と生活物資を運ぶため、監獄汽船が毎日のように石狩川を行き来し、石狩川を使った内陸交通は盛んになっていった。しかし当時の石狩川には、埋木や流木が多かった。北海道庁が、上川開拓のために購入した外輪汽船「上川丸」が、運航することができなかったほどだ。上川丸は払い下げられ、民営による石狩川舟運が本格的に営業された。
川の駅と鉄道駅があった当時の江別市は、物資の積み替え地として栄え、蒸気を上げて進む上川丸は大活躍した。
明治14年に、現在の月形町に『樺戸集治監(現在の刑務所)』が設置されると、集治監に囚人と生活物資を運ぶため、監獄汽船が毎日のように石狩川を行き来し、石狩川を使った内陸交通は盛んになっていった。しかし当時の石狩川には、埋木や流木が多かった。北海道庁が、上川開拓のために購入した外輪汽船「上川丸」が、運航することができなかったほどだ。上川丸は払い下げられ、民営による石狩川舟運が本格的に営業された。
川の駅と鉄道駅があった当時の江別市は、物資の積み替え地として栄え、蒸気を上げて進む上川丸は大活躍した。
道庁の指定を受けた石狩川線
石狩川舟運は、道路整備が遅れていた右岸住民にはなくてはならない交通路だったが、経営は厳しく撤退する会社が多かった。北海道庁は石狩川を、北海道で唯一の「命令航路」に指定した(明治35年)。命令航路とは、地方自治体などが船の運航を維持させるために、年間補助金を使って受命者に運航させる航路。『命令航路・石狩川線』は、「石狩~江別」「江別~月形」「月形~札的内(さってきない)」の3航路だった。
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上川丸と江別港(大正15年)
(佐藤幸之助蔵)
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監獄汽船「神威丸」
(江別青年会議所蔵)
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命令航路「石狩川線」の寄港地
*川の流れは明治30年頃のもので、現在とは異なる部分がある(殖民公報第14号などより作成)