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明治43年頃-暮らし・社会2【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌

明治43年頃(明治43年~昭和34年頃) 6暮らし・社会

  • タイトル

大都市からやってきた疎開者達の開拓

独自の酪農景観の形成
北海道はもともと、都市と農山漁村の区別はなく、札幌の暮らしの欧米化は、縮小した形で農村にまで伝わっていた。
暮らしだけでなく、酪農は欧米の生産様式を取り入れていたので、酪農地帯には折屋根の畜舎やサイロが点在し、輸入した農具などと相まって、本州にはない独特の景観を成していた。
*参考資料/新北海道史第一巻概説より
  • 牧場・牛舎・サイロの景
本州からの疎開者・拓北農兵隊
太平洋戦争の戦況が悪化すると、被害を避けるためなど、昭和19年から「疎開」がはじまり、昭和20年になると空襲から避難するため、大都市からの「緊急疎開」が強化された。大口の受け入れ先のひとつが北海道で、疎開者は農業に就いて生活の安定を図るとともに、北海道開発に貢献してもらうという特殊なものだった。北海道への疎開は、一時的な避難ではなく入植を意味したのだ。本州からの集団疎開者達は『拓北農兵隊』と名づけられた。
江別市角山地区に入植した『江別隊』は、3月10日の東京大空襲を受けた東京都世田谷区の被災住民だった。江別隊が入植した地区は『世田ヶ谷』、地区内を流れる豊平川の旧川(三日月湖)は『世田豊平川』と、ふるさとの名で呼ばれた。集団疎開者は、関東や関西など大都市出身者が多く、なかでも東京が圧倒数を占めた。
*参考資料/新北海道史第五巻通説四より
  • 集団入植者の出身府件・受け入れ支庁別数

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