開拓初期:石狩川上流域-産業2【札幌開発建設部】治水100年
石狩川流域誌 支川編
明治43年頃(明治43年~昭和34年頃) 石狩川上流域 産業
北の灘・旭川
明治20年頃から大事業が上川地方でつぎつぎに進められ、多くの人々が集まるようになると酒類が必要とされ、旭川で酒づくりがはじまった。日本酒の原料になる米は、最初はすべて移入したが、上川で水田化が急速に進み、上川米を使った酒造の研究も進んで、明治35年頃から上川米による酒づくりが定着した。そして第7師団が移駐すると、ますます酒類の需要は高まり、たくさんの蔵元が生まれ、大正時代にピークをむかえた。旭川は、わが国有数の酒所「灘(神戸)」にたとえられ、「北の灘」と呼ばれた。
また旭川には、薬用や香料に使われる酒精(エチルアルコール)工場もつくられた。明治33年に操業した神谷酒精は、原料となるバレイショやトウモロコシの産地・北海道でわが国初の酒精づくりを目指し、旭川を拠点に選んだ(現・合同酒精)。上川地方は大雪山の豊富な伏流水に恵まれ、水質は鉄分をほとんど含まず醸造に最も適していた。現在も、「男山酒造」「高砂酒造」「合同酒精」が酒蔵をかまえ、北の灘は健在だ。
*参考資料/新旭川市史
また旭川には、薬用や香料に使われる酒精(エチルアルコール)工場もつくられた。明治33年に操業した神谷酒精は、原料となるバレイショやトウモロコシの産地・北海道でわが国初の酒精づくりを目指し、旭川を拠点に選んだ(現・合同酒精)。上川地方は大雪山の豊富な伏流水に恵まれ、水質は鉄分をほとんど含まず醸造に最も適していた。現在も、「男山酒造」「高砂酒造」「合同酒精」が酒蔵をかまえ、北の灘は健在だ。
*参考資料/新旭川市史
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旭川最古の蔵「高砂明治酒造(高砂酒造)」
(旭川市観光課蔵)
川の恵み・天然氷
夏の暑さをしのぐ氷は、むかしは川から採られていた。氷製造は「凍氷(とうひょう)採取」と呼ばれ、北海道庁から営業許可をとって営むことができた。明治35年に日本最低気温の公式記録「-41度」を記録した旭川では(後に幌加内町が更新)、個人による川の凍氷採取が行われ、冬につくった氷は貯蔵庫に収納され、夏の需要期に氷屋、病院、鮮魚店、料理屋等に販売されたという。
製氷場は、現在の石狩川秋月橋付近や忠別川大正橋付近で、河川水を分水して玉石や木炭などでろ過し、沈殿池で一尺以上の厚さの氷にしてから採取された(「北海道の隆運」明治43年刊行)。製氷は明治33年からはじまり、昭和になってもつづけられた。
製氷場は、現在の石狩川秋月橋付近や忠別川大正橋付近で、河川水を分水して玉石や木炭などでろ過し、沈殿池で一尺以上の厚さの氷にしてから採取された(「北海道の隆運」明治43年刊行)。製氷は明治33年からはじまり、昭和になってもつづけられた。
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忠別川の天然氷の採取場
(石狩川の記憶・松下實蔵蔵)