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明治43年頃:豊平川流域-暮らし・社会【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

明治43年頃(明治43年~昭和34年頃) 豊平川流域 暮らし・社会

  • タイトル

〈この時代のおもな出来事など〉

明治43年、豊平町、藻岩村、白石村、札幌村の一部が札幌に編入され、大正11年に市制施行を果たし札幌市が誕生した。
北海道の軍政の中心は、第7師団のある旭川だったが、ロシアなど対外国への進出に札幌が見直され、昭和15年には南樺太から東北四県を管轄する「北部軍司令部」が豊平に置かれた。終戦後は進駐軍の進駐が進み、グランドホテルが 将校の宿舎になるなど95カ所が接収された。ま た戦後は、札幌に人口が集中して極度の住宅難になり、北区にあった札幌旧飛行場跡地に昭和26年から住宅等が建設された。さらに農地を転用した、住宅地の郊外進出もはげしくなっていく。一方中心街は、昭和30年頃から「ビルラッシュ」がはじまり、駅前通にはビルが競うように空へと伸びていき、中心街の風景は年々変化した。
*参考資料/新札幌市史

ススキノとラーメン横丁

昭和38年のラーメン横丁
終戦直後、食糧難対策の一つに、国は飲食店の営業を停止する政策をとった。食糧不足は長引いたため、昭和24年4月まで営業停止はつづいた。ようやく営業停止はとかれ、電力制限も解除されたため、市街地には街路灯やネオンが復活し、にぎわいは取り戻しつつあった。
昭和26年頃になると、ススキノにカフェや酒場が続々と誕生し、戦前をはるかに上回るほどの数になった。同じ頃、札幌市内のいたるところにラーメン屋台が現れ、秋の風物詩になっていたという。南5条西3丁目にあった劇場西側にも、数軒のラーメン長屋があった。昭和44年にオリンピック開催のための道路の拡幅工事が行われることになり、ラーメン長屋7軒すべては、 南5条西3丁目の仲通に移った。これが札幌名 物「ラーメン横丁」の誕生である。北海道のラーメンは地域毎の特色を持ち、戦後急速に普及した(北海道遺産)。
*参考資料/新札幌市史

伏籠川流域の下水道網整備

太平洋戦争後、真駒内に建設されたキャンプ・クロフォードに駐屯した進駐軍は、生活排水などを豊平川に流していた。進駐軍は汚水処理施設を設けたが、札幌は急激な人口増加に下水道整備が追いつかず、生活排水のほとんどは豊平川と支川に流され水質悪化と健康被害があらわになった。これを機に、札幌市内からサケが消えたといわれる。
伏籠川流域では区画整理事業をかねて、伏籠川(伏古川)を埋め立てて下水道化する計画を昭和29年に建てた。伏籠川は、かつて豊平川最下流がこの川の流路をたどって石狩川に合流し(洪水で流れが変化)、大友堀にも連絡した歴史を持つ。昭和42年、創成川終末処理場が完成し(現・創成川水再生プラザ)、48年までに7カ所の処理場が建設された。創成川処理場は創成川に、伏古川処理場は伏籠川に、茨戸処理場・篠路拓北処理場は茨戸川に処理水が放流され、伏籠川は処理水を源に流れ出る今の流れになった。昭和46年、札幌は全国平均を大きく上回る下水道普及率を誇るようになった。
*参考資料/新札幌市史、さっぽろの下水道

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