現在位置の階層

  1. トップページ
  2. 河川計画課
  3. 札幌開発建設部 治水事業
  4. 【札幌開発建設部】石狩川治水100年
  5. 【札幌開発建設部】治水100年
  6. 明治43年頃:夕張川流域-治水事業【札幌開発建設部】治水100年

明治43年頃:夕張川流域-治水事業【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

明治43年頃(明治43年~昭和34年頃) 夕張川流域 治水事業

  • タイトル

悲願の夕張川新水路の通水

泥炭地では、人がトロッコをひいて土砂を運搬した
明治43年からの「第一期拓殖計画」で、それまで親川だった千歳川から切り離し、夕張川を直接石狩川に合流させる、「夕張川新水路」の計画がまとめられた。財源不足のため工事の着手は遅れ、大正9年になってようやくはじまった。さらに財政難などから予算は削減され、工事は遅れる。その間、住民は自費で堤防を築き、工事の促進運動も行った。こうして昭和11年にようやく通水した。
また川の長さが3分の1に短くなったことから、急こう配になって川底を掘ったり、橋などを壊す恐れがあることから、清幌床止が設置された(その後増設)。新水路の通水で夕張川の水位は約1m低下し、通水年に発生した夕張川の洪水を完全に流下させるなど、その効果は大きかった。
*参考資料/石狩川治水史、南幌町百年史、長沼町史、栗沢町史

工事の補給基地・江別機械工場

江別の三角地に設置された江別機械工場
大正11年に「夕張川新水路」工事、翌12年には石狩川捷水路事業の「対雁新水路」工事という、大きな治水工事が江別のなかで行われ、このため大正8年、石狩川と千歳川が合流する三角地(現・大川通)に、「石狩川治水事務所江別機械工場」が設置された。
各工事現場にある治水工場(夕張川新水路は渋川工場)の機械や器具の製作や修理、工事資材等を千歳丸などで川輸送する、いわば補給基地といえた。
夕張川新水路工事では、機械工場から軌道をひき、ガソリン車で土運車をひいたという。大正12年現在で、敷地内に工場6棟(大工、鋳物、造船、旋盤など)、倉庫7棟、職員官舎4棟、長屋11棟などがあり、従業員は約120人で富士製紙江別工場(現・王子製紙)に次ぐ規模だった。昭和19年には独立し「土木機械工作所」に、戦後は「北海道開発局建設機械工作所」へと変わり、現在は水防活動の拠点基地「江別河川防災ステーション」になっている。

現在位置の階層

  1. トップページ
  2. 河川計画課
  3. 札幌開発建設部 治水事業
  4. 【札幌開発建設部】石狩川治水100年
  5. 【札幌開発建設部】治水100年
  6. 明治43年頃:夕張川流域-治水事業【札幌開発建設部】治水100年