観光 体験 ひだから紀行(日高町日高地域)~その2~
ひだから紀行(日高町日高地域)~その2~
日高管内日高町は、日本一離れた飛び地合併の町。旧日高町だった日高地域は、近年、観光に力を入れています。しかし、まだ多くの人が日高の魅力を分かっているとは言えません。「日高の良さを多くの人に知ってもらいたい」という思いから、日高をじっくり堪能し、みなさんにご紹介することにしました。
内容がたくさんあるため、「その1」~「その3」としてご紹介します。それぞれの内容は以下のとおりです。
早朝散歩は欠かすな!!
「昨日飲み過ぎたから、ゆっくり寝ていたいよ~」
などと言いそうなあなた。それはいけません。
朝の日高は良いです。
朝ご飯の前に、ちょっとお散歩はいかがでしょう。散歩がてらミニスポットを見るのがお薦めです。
こちらは、「日高青少年自然の家」の裏にある歩道橋。沙流川のせせらぎを聴きながら散歩ができます。
「石の道しるべ」を巡ってみよう
日高地域の歴史を感じることができるミニスポットが、「石のみちしるべ」として紹介されています。日高の特産の石をベースにした「道しるべ」がその場所に置かれています。以下の場所にあり、いつでも自由に見ることができます。
「ドッコイの渡船場跡」※「千栄神社本宮」「岩内不動」「三島小学校跡」「沙流川流送発祥の地」※「ウシャップ標柱跡」※「沙流川河畔遺物出土地帯」※「ウシャップラム古戦場跡」※
全てを見ました。「道しるべ」に書かれた解説を読み、その場の空気を吸えば、あっという間に昔にタイムスリップ。するかも。
「石の道しるべ」のうち、「※」印の箇所は、日高市街とその周辺にあるので、朝の散歩で見てみるのも良いでしょう。
道しるべはこんな感じであります。こちらはドッコイ渡船場跡。
日高地域の原点に立つ
国道274号を日勝峠に向かって進んでみましょう。
まず、左手に日高地域発祥の地である「開拓公園駐車場」があります。
そこにある石碑には、「明治38年9月、岩手県人・目曲(めまがり)久介氏がこの地に居を構え、日高町開拓の基礎をきづいた」とあります。
目曲さんは、日露戦争で需要が増えた銃の材料としてのクルミを求めて日高の地にやって来たのですが、この地が農牧畜に適しているのを感じ、日露戦争終結に伴う軍需物資の生産が収まると同時に、この地への入植を決意したのです。当時の目曲さんの印象について、日高町史では「開墾当時は2、3年はほとんど作物に実がはいらなかったが、おれは必ずこの土地で作物を稔らしてみせると口ぐせのようにいいながらガンバリとおした。その間の食物といえば千呂露川で釣ったヤマベとフキが主だった。」と書いています。目曲さんは農耕のかたわら牧畜を営むなど、この地域の発展に多くの功績を残しながら、1925年7月に亡くなりました。
開拓駐車場公園には、石碑とトイレがあります。今は、国道が走り拓けていますが、開拓当時は樹齢数百年の木々が生い茂り、うっそうとした状態だったに違いありません。公園に寄って、先人の苦労に思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。
【下写真】奥の方に石碑があり、手前に駐車場があります。写ってはいませんが、右の方にトイレがあります。
ちろろルピガーデン
千栄神社を見る
「千栄」は「ちさか」と読みます。読める人は少ないのではないでしょうか。
同地区は日高地域の面積の8割を占め、旧称は「チロロ」「チロロ原野」と呼ばれていました。日露戦争の頃、伐木に入った人が最初に現在の千栄市街に住み着いたのが始まりと言われています。その後、十勝・石狩方面からの入植者があり、1908年には戸数14戸の地区でした。1913年には沙流川沿いに稲が試作され好成績を上げ、日高地区の稲作の始まりとなっています。
さて、千栄神社は、1910年に建立され、開拓民の心のよりどころとされた小さな社であり、日高地域に現存する最も古い建造物です。1921年に当初の建築場所から現在地付近に「千露呂(ちろろ)神社」の名で移築されました。1943年に現在名に改称されましたが、1960年、日勝道路建設予定地コ-スに触れたため、約20m離れた現在地に移築しています。
鳥居から本社を望む。
チロロの巨石に乗っかる
【写真左】は正面から、【写真右】は裏面からみた様子。
この巨石はもともとあったのではなく、随分昔に日高山脈より切り出して来た石なのです。石といっても、長さ6メートル、重さ200トンもあります。
栗林元次郎(1896~1977)さんが持って帰ろうとした石です。1919年開拓団長として十勝に入植。1930年八紘学園を設立し初代理事長となり、以来海外開拓に活躍しました。鉱石収集が趣味で、1965年頃から日高山脈の銘石を掘り出すために日高町千栄地区に通いました。チロロの巨石は1974年頃にチロロ川支流から掘り出されましたが、重さが200トンにも達し、山中から現在の設置場所まで運ぶだけでも相当な資金が必要だったと言われています。設置場所から先は橋の重量制限があったために運び出せず、泣く泣くその場に置いたままとなりました。その後、日高町に寄贈されて、日高町が管理しています。
この石は地質学的には石英片岩(せきえいへんがん)と言うそうです。近寄って見てみると、場所によって、縞っぽく見えたり、かけら状の石が集まっていたり、白い縞が入っていたりします。いろいろな起源の石が混じっているようです。