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開拓初期-歴史のひとこま2【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌

開拓初期(明治初期~明治42年頃) 歴史のひとこま

  • タイトル

北海道四大運河と技術の系譜

幌向運河第二渡場の付近
幌向運河第二渡場の付近

(空知地方史研究協議会蔵)

石狩川流域には、小樽運河ができるニ六年も前から、
四大運河が完成していた。
北海道の開拓には、技術とともに屈指の人材が投入された—
琵琶湖疎水の技術が北海道に
京都は、明治維新で都が東京に移り、まちが衰退していった。当時の京都府知事・北垣国道は、産業振興を目的に琵琶湖の水を京都に送る水路『琵琶湖疎水(京都疎水)』を推進し、ふたたび京都は活気を取り戻した。この大事業の主任技師に、北垣は当時21才だった田辺朔郎(さくろう)を大抜擢した。田辺は、水力発電の実用化などを、期待に応えて成し遂げた。
この北垣のらつ腕は、北海道で振るわれることになる。明治25年、北海道庁長官に就いた北垣は、田辺を呼んだ。鉄道部長として、田辺は北海道官設鉄道の計画・建設にあたったほか、石狩川を調査する『北海道治水調査会』の委員になった。しかし、ほとんどの実務を担当したのは、田辺朔郎ではなく岡﨑文吉だった。
四大運河と若き才能
北垣国道は、北海道で最も急を要する事業に、鉄道・港湾・道路とともに、排水を目的に「運河」の掘削をあげた。夕張川を軸とした『幌向運河(南幌町)』『馬追運河(長沼町)』、札幌から石狩までの『札幌~茨戸間運河』『花畔~銭函間運河(樽川運河・山口運河)』は、明治30年頃に完成した。水位の高低差を少なくする「閘門(こうもん)」が設置されるなど先進技術が採り入れられ、南幌では江別への物資輸送の時間が半減し、長沼では貨物の損傷が減って物価下落につながった。創成川下流の『札幌・茨戸間運河』を設計したのは、当時24才の岡﨑文吉だった。北垣はふたたび若き才能を見出していた。岡﨑はその後、調査を経て、石狩川治水計画をまとめ上げることになる。
まさに「技術は人なり」—
  • 四大運河の位置 四大運河の位置

    (「石狩川舟運史」をもとに作成))*陸地測量部発行地形図 大正5年「石狩」「札幌」、大正6年「銭函」、 大正5年「江別」、大正5・6年「漁」を参考に運河位置を描き加えた(河道は明治20年代頃、鉄道は明

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