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開拓初期:夕張川流域-流域の文学【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

開拓初期(明治初期~明治42年頃) 夕張川流域 流域の文学

  • タイトル

辻村もと子・馬追原野

父は鍬(くわ)で、わたしは筆で北海道の天地をきり拓くのだ

後に岩見沢志文の開祖になる辻村直四郎は、明治24年から約1年間、長沼の農場で働いた。困難を極めた開拓をつづったのが、長女・辻村もと子の「馬追原野」だ—
岩見沢で生まれた辻村もと子は、父・直四郎の開拓日誌をもとに、長沼の開拓の様子を書きあげる。「馬追原野」は高い評価を受け、昭和19年、女流作家に与えられる第一回樋口一葉賞を受賞した(戦争のため1回で終了)。
長沼開拓を描いた郷土の文化遺産として、昭和47年、馬追丘陵の一峰に文学碑「馬追原野」が建てられた(マオイ文学台)。眼下には、直四郎が鍬を入れた農場とともに石狩平野が広がっている。
*参考資料/長沼町九十年史
  • マオイ文学台 マオイ文学台

    (長沼町蔵)

岩見沢まではまがりなりにも汽車の旅であったが、そこから馬追原野までたっぷりの道を歩かねばならない。夕張道路を久樽(現・栗丘地区)から右にそれ、夕張川の渡しをアイヌの操る丸木船で馬追原野の入口に達すると、そこにはもう四、五戸の移住民が開墾に着手していた。
運平(辻村直四郎)らの新しい土地はさらに樹林地を十五、六町も奥で、原野の中心部に近く、楡(ニレ)、塩地(シオジ)、槭(カエデ)、栓(セン)などの巨木がうっそうと立ち並び、下草は身の丈ほどのクマササが生い繁っていて、一歩入れば方向も目当てもつかぬ原生林だった。
小屋を作り、馬やプラオを使って開墾がはじまる…
(「長沼九十年史」掲載の「あらすじ」を一部抜粋して簡略化)
辻村もと子

  明治39年、岩見沢に生まれる。岩見沢町立女子職業学校(その後廃校)の教師となり、結婚して東京へ。しかし腎臓病をわずらい、結婚生活も破たんする。編集の仕事をしながら創作活動をつづけ、昭和17年に書いた「馬追原野」は「婦人画報」で一等に入選し、昭和19年に第一回樋口一葉賞を受賞。昭和20年には小説「月影」が芥川賞候補に(戦争で中止)。しかし同年の東京大空襲後、体調が悪化して北海道に戻り、昭和20年5月24日、短編集「風の街」を最後に腎臓病のため岩見沢市の病院にて永眠。享年40才。代表作「早春箋」「月影」ほか

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