現在位置の階層

  1. トップページ
  2. 河川計画課
  3. 札幌開発建設部 治水事業
  4. 【札幌開発建設部】石狩川治水100年
  5. 【札幌開発建設部】治水100年
  6. 開拓初期:幾春別川流域-産業【札幌開発建設部】治水100年

開拓初期:幾春別川流域-産業【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

開拓初期(明治初期~明治42年頃) 幾春別川流域 産業

  • タイトル

〈開拓初期の産業の状況〉

明治22年、払い下げ当時の幌内炭鉱
明治22年、払い下げ当時の幌内炭鉱

(北海道大学附属図書館蔵)

明治元年、三笠の幌内川上流の炭層が住民により発見され、明治6年に開拓使の榎本武揚が幾春別川を遡って調査にあたった。榎本は旧幕府の海軍副総裁で、戊辰戦争の最後の戦い「箱館(函館)戦争」の指揮をとり、降伏後は才能を買われて開拓使の中判官になり、鉱山調査を命じられていた。その後、お雇い外国人で鉱山地質技師のベンジャミン・スミス・ライマン率いる調査隊がくわしく調べ、明治12年に幌内炭鉱が開抗した。19年には、同じ三笠で幾春別炭鉱が開坑した。明治22年に北海道炭鉱鉄道(通称・北炭。その後「北海道炭鉱汽船」に)の設立と同時に払い下げられ、以降わが国の近代化や太平洋戦争後の復興を支えた(平成元年閉山)。炭都・三笠は昭和30年代には大手炭鉱が5山あり、人口もピーク時には63,000人を記録した。
なおライマン調査隊は、美唄炭田も調査しているが、本格的に開発されるのは大正に入ってからになる。
*参考資料/新北海道史、岩見沢市史、新三笠市史

日本初の総合的地質図

日本蝦夷地質要略之図
日本蝦夷地質要略之図
お雇い外国人で鉱山地質技師のベンジャミン・スミス・ライマンは、明治6年から8年まで、北海道各地の地質などをくわしく調査した。調査結果は「日本蝦夷地質要略之図」にまとめられ、明治9年に開拓使から発行された。
地図は北海道の地質を7層に区分し、黒色インクで印刷された原図に、ライマンが手描き彩色をほどこしたという。総合的な地質図としては日本最初のもので、明治11年に発行された「北海道地質総論」は、この地図の説明書の役割を持っている。

現在位置の階層

  1. トップページ
  2. 河川計画課
  3. 札幌開発建設部 治水事業
  4. 【札幌開発建設部】石狩川治水100年
  5. 【札幌開発建設部】治水100年
  6. 開拓初期:幾春別川流域-産業【札幌開発建設部】治水100年