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開拓初期:石狩川上流域-土地利用2【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

開拓初期(明治初期~明治42年頃) 石狩川上流域 土地利用(農業・市街地)

  • タイトル

上川百万石を育んだ天の恵み

わが国の稲作は、夏の高温と梅雨が支えていた。本州では、稲が生長する月の降水量が旭川の2~3倍にあたり、5月から10月までの平均気温を加えた積算温度も高い。ではなぜ上川地方は、「上川百万石」と称される米どころになったのか。
上川地方は内陸性の気候で朝晩は冷え込むが、夏は25℃以上の夏日が多く、30℃以上の真夏日になることも少なくない。また冬に大雪山に積もった雪が自然のダムになって、春から融けて流れるため降水不足を補った。また、上川盆地には石狩川や支川などたくさんの川が流れ、豊かなかんがい用水を供給することができた。上川地方の自然環境は、水稲にとって望ましい条件を有していた。この自然環境を背景に、寒冷地に適した品種や栽培法が日々研究・開発されていったのだ。
*参考資料/新旭川市史
  • 永山農事試験場の水田、明治39年 永山農事試験場の水田、明治39年

    (北海道大学附属図書館蔵)

村長自ら率いた福島団体

屯田兵以外の団体移住のなかで、最も規模が大きかったのはペーパン(米原、瑞穂)地区に入植した福島県団体約80戸だった。
福島県伊達郡太田村(現・保原町)は、蚕(カイコ)を飼育する養蚕(ようさん)業と製糸業が盛んだったが、当時は小作率が高く農民は苦しい暮らしぶりだった。村長の菊田熊之助は、農民を救済するため北海道移住を計画する。この決断の裏には、「札幌蚕業伝習所」の教師をしていた同郷の末松格平の存在があった。末松は養蚕経験者の北海道移住を奨励し、明治29年に渡道した菊田村長に上川を移住地に勧めた。菊田村長は村民を力説して希望者を募り、村民からの要望で団体長になって村長を辞め、明治31年から移住を進めた。首長自ら移住団を率いたのは、北海道開拓史のなかでもめずらしい。移住者の一人が明治42年に郷里を模して建てた養蚕民家は、旭川の文化財に指定された。
*参考資料/新旭川市史
  • ペーパン原野福島団体開墾地の景 ペーパン原野福島団体開墾地の景

    (北海道大学附属図書館蔵)

草分け的な上川の薄荷

精油がメンソールなどに使われる特用作物の薄荷(ハッカ)は、世界一といわれた北見地方が産地として有名だが、はじまりは上川地方だった。
明治28年、永山地区で水稲試作に成功した石山伝右衛門は、郷里の山形から薄荷の種根を取り寄せ、上川地方ではじめて栽培と精油を行った。薄荷栽培は、おもに山形県からの移住者によって比布や東旭川、愛別や神楽など上川各地に伝わり、作付面積は増大していった。大正2年には、愛別が930町歩と上川地方で最も大きな栽培地になった。そして上湧別で試作されたことを機に北見地方で広く栽培され、全道最大の産地から世界市場の7割を占めるまでになり、ゴールドラッシュのような状況だったという。
*参考資料/新旭川市史

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