明治43年頃:千歳川流域-土地利用2【札幌開発建設部】治水100年
石狩川流域誌 支川編
明治43年頃(明治43年~昭和34年頃) 千歳川流域 土地利用(農業・市街地)
〈この時代の農業の状況〉
大正3年からの第一次世界大戦で、燕麦(えんばく)や豆類が高騰し、千歳川流域でも競って作付されたが、戦後不況で水稲への転換が進んでいく。大正11年、「南長沼土功組合」が設立され、千歳の蘭越地区の千歳ふ化場下流に「千歳川頭首工」が昭和2年に竣工し、造田がはじまった。ようやくはじまった千歳川の河川整備や、長都沼の干拓で開墾地は拡がった。
昭和2年からの「第2期北海道拓殖計画」は、酪農の振興が主要施策にされた。江別は、「野幌兵村農業振興会」などが、毎年牛などの優良種を移入して畜産を奨励した。こうした努力もあって、江別は模範的な酪農地帯としてめざましい伸展を遂げる。
昭和2年からの「第2期北海道拓殖計画」は、酪農の振興が主要施策にされた。江別は、「野幌兵村農業振興会」などが、毎年牛などの優良種を移入して畜産を奨励した。こうした努力もあって、江別は模範的な酪農地帯としてめざましい伸展を遂げる。
赤レンガのサイロ登場
大正のはじめ頃から、比較的飼育が簡単なエアシャとともに、今日では乳牛の代名詞になっているホルスタインが移入されるようになり、大正10年には上回るようになった。
大正6年に「極東練乳」が札幌に工場を設立し、江別や野幌にも集乳所を開き、これが酪農を定着させた。江別の牧歌的風景である、赤いレンガサイロが姿を見せるのはこの頃だ。それ以前は、納屋などにデントコーンを入れていたが、 サイロの登場で冬の作業が省力化され、たくさんの飼育が可能になった。野幌兵村は「北海道のデンマーク」と称され、模範酪農地区として表彰されるほどに。
昭和2年には、石狩の樽川地区から対雁(現・いずみ野)へ、「近代酪農のパイオニア」といわれる「町村農場」の移転が実現した。江別酪農はもとより、産業界全体に与えた影響は計り知れない。
大正6年に「極東練乳」が札幌に工場を設立し、江別や野幌にも集乳所を開き、これが酪農を定着させた。江別の牧歌的風景である、赤いレンガサイロが姿を見せるのはこの頃だ。それ以前は、納屋などにデントコーンを入れていたが、 サイロの登場で冬の作業が省力化され、たくさんの飼育が可能になった。野幌兵村は「北海道のデンマーク」と称され、模範酪農地区として表彰されるほどに。
昭和2年には、石狩の樽川地区から対雁(現・いずみ野)へ、「近代酪農のパイオニア」といわれる「町村農場」の移転が実現した。江別酪農はもとより、産業界全体に与えた影響は計り知れない。
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旧町村農場
(石狩川振興財団蔵)