夕張と治水の歴史
明治 開拓と共にはじまる洪水との闘い。
明治2年の北海道に開拓使が設置され、夕張にも開拓のために人々がすみはじめました。しかし、北国特有の泥炭地であったため水はけが悪く、大雨が降ると水が引くまでに数日かかりました。村の人々は雨が降ると半鐘を鳴らし、川から水が流れ出さないように、堤防に土俵を積んで対処していました。
しかし、石狩川から逆流してきた水も加わり、川の水は堤防を越え、じわりと町を覆いました。水が引くまで10日ほどかかり、農作物もだめになりました。村の人々にとって水害の根絶は切実な願いだったのです。
しかし、石狩川から逆流してきた水も加わり、川の水は堤防を越え、じわりと町を覆いました。水が引くまで10日ほどかかり、農作物もだめになりました。村の人々にとって水害の根絶は切実な願いだったのです。
明治後期~昭和のはじめ 新水路にかけた願い。
住民の懇願で道庁から派遣されたのは、保原元二でした。約40キロの旧夕張川の途中から約11キロの新水路「新夕張川」を引き、石狩川に直接流す工事を考え、指揮をしました。一帯は泥炭地。ほとんど人の手で掘り進める工事は難航しました。多くが東北出身の労働者は、午前3時に起床、午後8時ごろまで働く毎日でした。15年の歳月をかけ工事は1936年(昭和11年)に完成。
住民の切実な願いだった水害の根絶に、大きな貢献を果たしました。
住民の切実な願いだった水害の根絶に、大きな貢献を果たしました。
昭和 夕張川が交通路。そして、大夕張ダム建設へ。
夕張川と人々の歴史は水害だけではありません。明治時代には、夕張川は渡し船が行き来し、交通路として人々を運んでいました。しかし、この渡し船も水害で転覆して犠牲者が出たため廃止となりました。
新水路が出来てからの夕張川は、洪水被害は減少。昭和36年には、農業用の大夕張ダムが完成し、夕張川下流の農地に水を供給しています。長年問題となっていた農業用水の不足を解消したのです。大夕張ダムの建設は、戦後の石狩川流域の総合開発計画の一環として行われました。