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開拓初期-暮らし・社会2【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌

開拓初期(明治初期~明治42年頃) 6暮らし・社会

  • タイトル
屯田兵村と屯田兵屋
明治8年の『札幌郡琴似村』から、明治32年まで屯田兵入地はつづけられ、とくに石狩川流域には屯田兵村が多く置かれた。屯田兵は、ふだんは農業をしながら軍事訓練を行い、いざ戦争がはじまると軍隊として戦う。実際に、西郷隆盛が総大将の「西南戦争(明治10年)」に派遣された。初期の屯田は、明治維新などで失業した士族を募集したが、明治23年からは平民の募集が中心になり、東北からの稲作経験者が多く入植したことで米づくりが一層進んだ。
屯田兵村には屯田兵が暮らす『屯田兵屋』がつくられた。江別市の「篠津屯田兵村」はロシア式で、木の角組に室内にはペチカ(ロシアの暖炉)も付いていた。「江別太屯田兵村」は、開拓使顧問のウイリアム・スミス・クラークと農業技師のエドウィン・ダンの指導を受け、兵屋には暖炉が付き、ガラス窓も入ったアメリカ式で、当時としては寒地向け住宅だった。
*参考資料/江別市「江別の屯田兵」より
自給自足と川の恵み
米がまだ収穫されなかった頃、ヒエやアワといった雑穀類か、バレイショが主食だった。少量のソバと野菜の切り干しを入れた味噌雑炊、バレイショの塩煮、団子などで、最上級の食事は、米3に雑穀7の混食で、これを食べられるのは村長や巡査、お坊さんの家だったという。しょう油は貴重品だったので、調味料は塩と味噌。大豆が収穫されるようになると、それぞれの家庭で味噌がつくられた。
飲料水は簡易な井戸を掘ったり、川沿いでは川水を使った。正月と盆には白米が食べられ、唯一の楽しみになっていた。
*参考資料/南幌町史より
  • 篠津屯田兵屋(明治14年頃)ロシア式丸太組兵屋 篠津屯田兵屋(明治14年頃)ロシア式丸太組兵屋

    (北海道大学附属図書館蔵)

  • 江別太屯田兵屋(明治11年頃)アメリカ式中2階建 江別太屯田兵屋(明治11年頃)アメリカ式中2階建

    (北海道大学附属図書館蔵)

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