昭和55年頃-暮らし・社会1【札幌開発建設部】治水100年
石狩川流域誌
昭和55年頃(昭和55年~平成8年頃) 6暮らし・社会
都市化の進展と市民運動
ニュータウンによる人口増加
石狩川流域では、平成8年に広島町が北広島市に、石狩町が石狩市になった。両市は過密化する札幌市のベッドタウンとして、昭和40年代から都市機能を持った住宅街「ニュータウン」を造成した。北広島市は昭和50年の人口増加率が全国第2位になるほどで、石狩市も同様に急増したため、市制施行に至った。
しかし、同じような家族構成と年齢層の世帯が同時期に多数入居すると、後年、一帯は高齢化地帯になる(ニュータウンの高齢化)。ニュータウンを抱えるまちでは、対策が話し合われている。
*参考資料/石狩市、北広島市より
しかし、同じような家族構成と年齢層の世帯が同時期に多数入居すると、後年、一帯は高齢化地帯になる(ニュータウンの高齢化)。ニュータウンを抱えるまちでは、対策が話し合われている。
*参考資料/石狩市、北広島市より
寒冷地の住宅技術
北海道の住宅は、独自の進化を遂げてきた。一戸建てにも集合住宅にも、「寒冷地仕様」が採り入れられ、なかでも冬の寒さをシャットアウトする「高気密・高断熱」は北海道から生み出された。また一戸建ての屋根は、落雪型は三角、無落雪型は四角で雪を屋根に溜めるなど、本州の瓦(かわら)屋根は皆無だ。
三角や四角の北海道の住宅群は、豊かな自然にとけ込んで、異国のような風情を醸している。
三角や四角の北海道の住宅群は、豊かな自然にとけ込んで、異国のような風情を醸している。
豊平川カムバックサーモン運動
昭和のはじめまで、札幌市の中心を流れる豊平川にはたくさんのサケが上り、増殖事業が行われるほどだった。戦後、人口の急増に下水道整備が追いつかない状態になり、生活排水のほとんどが豊平川に流れ込んだ時期があった。水質は悪化し、昭和28年頃になるとサケの姿が消えた。その後、下水道の整備が進み、豊平川の水はきれいになったにもかかわらず、サケは戻らない。この状況を憂い、市民有志は昭和53年に『さっぽろサケの会』を結成した。翌年に稚魚を放流し、2年後の昭和56年、成長して帰ってきた。こうして「カムバックサーモン運動」は全市的に広がって、行政機関をも巻き込んだ大きな運動に成長した。
昭和57年には、市内の小学生がサケの遡上(そじょう)を阻害する床止(とこどめ)に、「魚道」を設置するよう時の総理大臣に訴え、整備が進んだ。昭和59年には、サケのふ化や放流、サケ学習の場として『札幌市豊平川さけ科学館』が、真駒内公園に開館した。
『豊平川カムバックサーモン運動』は本州にも飛び火するなど、北海道における市民運動の先駆けとなった。
昭和57年には、市内の小学生がサケの遡上(そじょう)を阻害する床止(とこどめ)に、「魚道」を設置するよう時の総理大臣に訴え、整備が進んだ。昭和59年には、サケのふ化や放流、サケ学習の場として『札幌市豊平川さけ科学館』が、真駒内公園に開館した。
『豊平川カムバックサーモン運動』は本州にも飛び火するなど、北海道における市民運動の先駆けとなった。