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開拓初期:雨竜川流域-歴史のひとこま【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

開拓初期(明治初期~明治42年頃) 雨竜川流域 歴史のひとこま

  • タイトル

華族農場の華々しき有名人

わが国では、明治二年から昭和二十二年まで、華族階級が存在した。
皇族や公家、大名だった人、新たに加えられた人からなる貴族階級のことで、明治二年に定められた。
「華族組合雨竜農場」を開設したのはこの華族達で、幕末から明治にかけて活躍した名だたる人物もいた—

尊攘派で首相だった三条実美

三条実美
「華族組合雨竜農場」の筆頭農場主は、当時、臨時首相だった三条実美だった。
公爵の三条実美(さんじょうさねとみ)は、幕末時には尊皇攘夷(そんのうじょうい)派の公家の中心として知られ、文久3年「八月の政変(尊攘派の京都追放)」で七卿落ち(しちきょうおち)の一人として長州に下った。三条が潜んでいた長府・功山寺は、かの高杉晋作が藩内を占めた俗論派を一掃するため挙兵した地で(功山寺挙兵)、出兵時に挨拶に訪れたことでも知られる。三条等に、「これよりは長州男児の腕前お目にかけ申すべく」という名言を残し、馬上の高杉は雪中を駆け抜けた。
三条実美は王政復古後に表舞台に復帰し、明治2年に右大臣に、4年には太政大臣に就いた。明治22年の黒田清隆内閣総辞職後に、一時、臨時首相を務めた。
華族組合雨竜農場は、三条の存在があったからこそ、全国から注目され事業がつづけられたといえる。

徳島のお殿様・蜂須賀茂韶

蜂須賀茂韶
「華族組合農場」の解散後、農場を新たに開いて雨竜農業の基礎を築いたのが、徳島藩主の次男として生まれた蜂須賀茂韶(はちすかもちあき)だ。
蜂須賀は明治元年に徳島藩主を継ぎ、明治2年の「版籍奉還(はんせきほうかん)」にともなって徳島藩知事になった。明治5年にはイギリスに留学、15年からは公使としてフランスに駐在し、帰国後は当時の東京府知事や貴族院議長などを歴任し、17年に侯爵になった。
蜂須賀茂韶が開いた蜂須賀農場は、明治30年に収益は黒字に転じ、経営規模を拡大して、わが国を代表する大農場に成長した(昭和22年の農地解放で解散)。

*参考資料/近代日本人の肖像(国立 国会図書館)、「開館10周年記念特別展・蜂須賀農場の成立」(徳島県立文書館)

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