現在位置の階層

  1. トップページ
  2. 河川計画課
  3. 札幌開発建設部 治水事業
  4. 【札幌開発建設部】石狩川治水100年
  5. 【札幌開発建設部】治水100年
  6. 開拓初期:石狩川右岸流域-暮らし・社会【札幌開発建設部】治水100年

開拓初期:石狩川右岸流域-暮らし・社会【札幌開発建設部】治水100年

石狩川流域誌 支川編

開拓初期(明治初期~明治42年頃) 石狩川右岸流域 暮らし・社会

  • タイトル

〈開拓初期の開墾の状況〉

石狩は明治4年に早くも「石狩町」になり、花畔地区と生振地区が開村され、若生(わかおい)地区に「開拓使出張所」が置かれた(8年廃止)。
月形は明治14年の樺戸集治監の開監で、空知地方第一号の村として開村した。20年に「月形~浦臼晩生内(おそきない)間」の道路が開削されたことで、浦臼の入植がはじまり、明治32年に月形から分村。明治29年には新篠津が江別から分村した。
月形には日本ではじめてといわれる上水道が、明治19年から建設された。集治監の飲料水や生活用水を確保するため、赤川を水源に水を木管で約3キロメートル先まで送った。集治監内で製造されたレンガを使用した取水塔などもあり、「監獄水道」や「月形水道」と呼ばれた(現在は埋め戻して保存)。
参考資料/樺戸集治監の歴史コース・水道遺跡(月形町)

サムライ達の当別開拓

戊辰戦争に破れた仙台藩一門の岩出山藩(伊達家)は、領地・城・屋敷のすべてを没収された。藩主の伊達邦直(だてくになお)は、生活が困難になった家臣を救うため、私財を売って資金をつくり北海道移住を決断する。
石狩北部の聚富(しっぷ。現・石狩市厚田区)の支配を許され、明治2年に入地した。この海沿いの地は「新開地」と呼ばれ、「伊達邦直移住記念碑」が残されている。しかし一帯は砂地で収穫がなかったことから、開拓使に再度お願いして、調査の末に当別支配を許される。明治5年から当別の開拓にあたり、分領支配が廃止されてもそのまま開拓をつづけ、14年には有珠郡の伊達とともに模範開拓村に選ばれた。伊達は、邦直の弟の亘理伊達家藩主の伊達邦成が開拓したまちだ。また伊達家につかえた片倉家家臣の一部も、札幌開拓に成功している(白石地区)。明治35年頃には、石狩地方で最も豊かな農村へと発展した。当別出身の本庄陸男著「石狩川」は、開祖一行の北海道移住をドラマチックに描いている。
*参考資料/当別町の概要(当別町)
  • 明治36年の当別市街 明治36年の当別市街

    (北海道大学附属図書館蔵)

最古の灯台・石狩灯台

現在の石狩「はまなすの丘公園」に建つ石狩灯台は、明治25年1月1日、細長く突き出した砂嘴(さし)の上に点灯された、100年以上の歴史を誇る現存する最古の灯台だ。かつてこの辺 りが河口近くだった証でもあり、川の流れと海の波によって、100年間で徐々に砂嘴の先端が成長していったと考えられている。
建設当初は木造だったが、明治41年に鉄造に建て替えられた。また昭和32年には、灯台守一家の波乱に満ちた人生を描いた映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケ地の一つになった。この映画はカラー映画のはじまりでもあり、色彩効果を高めるため、白黒のたて模様から現在の赤と白に塗り替えられた。
*参考資料/石狩市・石狩ファイル
  • 現在の石狩灯台 現在の石狩灯台

現在位置の階層

  1. トップページ
  2. 河川計画課
  3. 札幌開発建設部 治水事業
  4. 【札幌開発建設部】石狩川治水100年
  5. 【札幌開発建設部】治水100年
  6. 開拓初期:石狩川右岸流域-暮らし・社会【札幌開発建設部】治水100年