12 札幌・茨戸間運河【札幌開発建設部】治水100年
ページ内目次
石狩川治水に係わる主な事業
12 札幌・茨戸間運河
ふたたび役割をになった創成川
「大友堀」をはじまりとする創成川は、札幌が本府に決まり、本府と市街地の建設が進むとともに延長され、物資を運び用水を供給するなどさまざまに活用された。その後、運河としてふたたび注目される。
明治維新後、都が東京に移ったことで衰退が進む京都の、産業振興のために整備された「琵琶湖疏水(びわこそすい)」は、当時の京都府知事・北垣国道により進められた。明治25年、北海道庁長官に就いた北垣は、交通網の整備の重要性を主張し、京都での経験を活かして「札幌・茨戸間運河」「花畔・銭函間運河」「幌向運河」「馬追運河」を明治30年頃までに建設した。この事業の設計と技術を担当したのは、その後、石狩川の治水計画をまとめる岡﨑文吉だった。「札幌・茨戸間」は、新たに開削される「花畔・銭函間」とともに、銭函と札幌をむすぶ役割をになう。すでに市街地から茨戸まで開削されていた創成川に、北6条から茨戸まで8つの閘門(こうもん)が設けられ、昭和期まで利用された。札幌草創に創成川が果たした役割は、あまりにも大きい。
◎閘門とは
水位の違う水路間で船を安全に航行させるため、水をせき止めたり流したり調節する施設。いわば船を浮かべた箱に水を流して、エレベーターのように上げたり下げたりする。
明治維新後、都が東京に移ったことで衰退が進む京都の、産業振興のために整備された「琵琶湖疏水(びわこそすい)」は、当時の京都府知事・北垣国道により進められた。明治25年、北海道庁長官に就いた北垣は、交通網の整備の重要性を主張し、京都での経験を活かして「札幌・茨戸間運河」「花畔・銭函間運河」「幌向運河」「馬追運河」を明治30年頃までに建設した。この事業の設計と技術を担当したのは、その後、石狩川の治水計画をまとめる岡﨑文吉だった。「札幌・茨戸間」は、新たに開削される「花畔・銭函間」とともに、銭函と札幌をむすぶ役割をになう。すでに市街地から茨戸まで開削されていた創成川に、北6条から茨戸まで8つの閘門(こうもん)が設けられ、昭和期まで利用された。札幌草創に創成川が果たした役割は、あまりにも大きい。
◎閘門とは
水位の違う水路間で船を安全に航行させるため、水をせき止めたり流したり調節する施設。いわば船を浮かべた箱に水を流して、エレベーターのように上げたり下げたりする。
-
昭和初期の創成川
(札幌市文化資料室所蔵)
開拓初期
- カナダのトレント・セバーン水路の第一閘門
所在地
- 札幌市北部~茨戸川