48 枯木捷水路【札幌開発建設部】治水100年
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石狩川治水に係わる主な事業
48 枯木捷水路
右岸だけを通水させた 捷水路と昭和号
昭和14年の工事の着工から、豊平川捷水路工事で稼働した浚渫船・昭和号が転用された。枯木捷水路の計画された長さは2,100mで、2区の捷水路のなかでは最長だったが、通水が急がれた。そのため捷水路の右岸半分をまず掘削して、昭和15年10月16日に通水させ、ひきつづき残り半分を水中で浚渫するという方法がとられた。
この工事で活躍した浚渫船・昭和号は、昭和16年4月に浚渫が終了した後、中国の北支新港の浚渫に従事することになり、海を渡った。以来、石狩川に戻ることはなかった。石狩川捷水路事業は、残った浚渫船・北海号により浚渫がつづけられた。
石狩川の連続した捷水路事業は世界にも類をみない壮大な事業で、掘削機や浚渫船という機械技術も世紀の工事を成し遂げた要因のひとつだ。2区の捷水路は小さな蛇行(だこう)から大きなものまで12箇所(3区も同様)あり、となり合うまちとの境界線になっているところも多い。アイヌ語で「イ・シカラ・ペツ=非常に曲がりくねった川」を意味する、石狩川のゆえんでもある。
この工事で活躍した浚渫船・昭和号は、昭和16年4月に浚渫が終了した後、中国の北支新港の浚渫に従事することになり、海を渡った。以来、石狩川に戻ることはなかった。石狩川捷水路事業は、残った浚渫船・北海号により浚渫がつづけられた。
石狩川の連続した捷水路事業は世界にも類をみない壮大な事業で、掘削機や浚渫船という機械技術も世紀の工事を成し遂げた要因のひとつだ。2区の捷水路は小さな蛇行(だこう)から大きなものまで12箇所(3区も同様)あり、となり合うまちとの境界線になっているところも多い。アイヌ語で「イ・シカラ・ペツ=非常に曲がりくねった川」を意味する、石狩川のゆえんでもある。
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上流には石狩川頭首工と篠津運河
(石狩川開発建設部蔵)
明治43年頃
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昭和2年から配置され、この工事後に中国にわたった昭和号
(石狩川本支流治水工事概要より)
所在地
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月形町雁里