黎明期(明治43~44年)の石狩川流域
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黎明期(明治43~44年)の石狩川流域
土地利用とは、一般的に人間が土地から農産物などを取り出す一方的な関係として受けとられやすい。しかし、人間と土地とは、相互に影響を及ぼし合いながら共存し、その中で土地利用の体系が歴史的に構築されていくのである。
したがって、各時代の意思、知識、技術、資金力など、人々の土地条件に対する時代の総合的な評価の結果が、土地利用として表現される。
土地利用現況図は、こうした相互作用の累積として、人間-土地という関係の自己発展的な変化を遂げていく過程において、ある時代という段階での一つの結果を指し示すものである。
したがって、各時代の意思、知識、技術、資金力など、人々の土地条件に対する時代の総合的な評価の結果が、土地利用として表現される。
土地利用現況図は、こうした相互作用の累積として、人間-土地という関係の自己発展的な変化を遂げていく過程において、ある時代という段階での一つの結果を指し示すものである。
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特徴
北海道の初期の開拓にたずさわった人々は、米を主食とし、水田農業によって育った人が圧倒的多数であった。しかし、当時、北海道では稲作は無理とされ、多くの開拓者は、かつて経験したことのない環境と土地利用の制約の中で開拓に取り組まざるを得なかった。当初のリーダーの多くが、外国からの技術移転による寒冷地に強い畑作酪農の混同経営を意図したのに対して、多くの入植者は、水田農業への強い思考を捨てきれないでいた。この相剋が、北海道の開拓とその後の土地利用に大きな影響を及ぼすことになる。
この図には、草創期の人々が抱いた二つの壮大な夢が描き出されている。酪農郷の建設と水稲作への夢である。酪農郷は札幌北部周辺から岩見沢南部、妹背牛周辺にかけて、水田は上川盆地に広がりを見せている。
しかし、北海道は「特殊土壌」といわれる火山性土、泥炭土、重粘土などが多く、いずれも農業利用上多くの改良を必要とした。したがって、この時期までの土地利用は、できるだけこうした特殊土壌を避けるかたちで農地開発が進んでいった。
この図には、草創期の人々が抱いた二つの壮大な夢が描き出されている。酪農郷の建設と水稲作への夢である。酪農郷は札幌北部周辺から岩見沢南部、妹背牛周辺にかけて、水田は上川盆地に広がりを見せている。
しかし、北海道は「特殊土壌」といわれる火山性土、泥炭土、重粘土などが多く、いずれも農業利用上多くの改良を必要とした。したがって、この時期までの土地利用は、できるだけこうした特殊土壌を避けるかたちで農地開発が進んでいった。