展開期(大正7~13年)の石狩川流域
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展開期(大正7~13年)の石狩川流域
土地利用とは、一般的に人間が土地から農産物などを取り出す一方的な関係として受けとられやすい。しかし、人間と土地とは、相互に影響を及ぼし合いながら共存し、その中で土地利用の体系が歴史的に構築されていくのである。
したがって、各時代の意思、知識、技術、資金力など、人々の土地条件に対する時代の総合的な評価の結果が、土地利用として表現される。
土地利用現況図は、こうした相互作用の累積として、人間-土地という関係の自己発展的な変化を遂げていく過程において、ある時代という段階での一つの結果を指し示すものである。
したがって、各時代の意思、知識、技術、資金力など、人々の土地条件に対する時代の総合的な評価の結果が、土地利用として表現される。
土地利用現況図は、こうした相互作用の累積として、人間-土地という関係の自己発展的な変化を遂げていく過程において、ある時代という段階での一つの結果を指し示すものである。
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特徴
この時期は、北海道開拓の戦前における進展期であり、鉄道、道路網などインフラストラクチャーの整備を反映して、山間部開拓地への侵入が顕著であった。
開発の先進地である石狩平野南部を中心にして、特殊土壌である泥炭地への挑戦も始まった。排水を主とする河川改修と土地改良である。
おりからの雑穀類の好況にも支えられて、各河川流域の谷底平野が奥地まで開墾されるとともに、周辺の台地、丘陵地の畑地利用が急速に広がっていった。
またこの時期、排水やかんがい事業の発達にともなって水田の開発も盛んになっていった。明治19年の米の生産高は約3万石に過ぎなかったが、39年には約24万石、大正5年には 86万石へと急伸し、同9年には約120万石まで伸びている。
水田が拡張していく一方で、丘陵地の畑では養分の収奪と土壌の浸食による生産力の低下が起こり、農地の維持は困難になっていった。また、開拓事業が進むにつれて森林の伐採、原野の開墾、河川の開削などが重なり、各地における河川の決壊は次第に増加。森林資源の消耗とともに、開拓自体もその力を失っていった例が多かった。
開発の先進地である石狩平野南部を中心にして、特殊土壌である泥炭地への挑戦も始まった。排水を主とする河川改修と土地改良である。
おりからの雑穀類の好況にも支えられて、各河川流域の谷底平野が奥地まで開墾されるとともに、周辺の台地、丘陵地の畑地利用が急速に広がっていった。
またこの時期、排水やかんがい事業の発達にともなって水田の開発も盛んになっていった。明治19年の米の生産高は約3万石に過ぎなかったが、39年には約24万石、大正5年には 86万石へと急伸し、同9年には約120万石まで伸びている。
水田が拡張していく一方で、丘陵地の畑では養分の収奪と土壌の浸食による生産力の低下が起こり、農地の維持は困難になっていった。また、開拓事業が進むにつれて森林の伐採、原野の開墾、河川の開削などが重なり、各地における河川の決壊は次第に増加。森林資源の消耗とともに、開拓自体もその力を失っていった例が多かった。