1.十勝川大水害を防げ - 川を流れやすくする(治水工事1) 1
1.十勝川大水害を防げー川を流れやすくする(治水工事1)(1)
(1)開拓する場所は低い土地が多い
開拓する人の多くは、できるだけ平らで土が肥えたところ、つまり川の近くの低い平野を開きました。こうした低い平野は、洪水になると水をかぶりやすい場所です。
特に明治31年(1898)、そして大正11年(1922)の洪水は、十勝川の周りが湖になってしまうほどで、それぞれ21人と9人の人が亡くなりました。開拓した畑をあきらめ、別の場所に移ったり、農業自体をやめなければならない人もたくさん出ました。
特に明治31年(1898)、そして大正11年(1922)の洪水は、十勝川の周りが湖になってしまうほどで、それぞれ21人と9人の人が亡くなりました。開拓した畑をあきらめ、別の場所に移ったり、農業自体をやめなければならない人もたくさん出ました。
写真をクリックすると拡大します
大正11年の大洪水。今の池田町清見の方から、利別・千代田地区の方を見た写真。このころはここで十勝川と利別川が合流していた。 | 大正11年の大洪水の時の池田駅前。水に入って作業する人たち。 |
大正11年の大洪水の時の止若橋(猿別川。今の国道38号の橋、幕別町) | |
(2)十勝川をまっすぐに
このころ十勝の川は、ほとんど自然のままの流れでした。自然の川は曲がりくねり、ひとたび洪水となると、水があふれやすく、また、なかなか水の量が減らない「暴れ川」となってしまいます。
そこで、十勝川の中・下流部の流れをよくするために、統内新水路工事が始まりました。
そこで、十勝川の中・下流部の流れをよくするために、統内新水路工事が始まりました。
図をクリックすると拡大します
大正9年ころの十勝川中~下流部。赤の点線が新水路の計画。(この地図は国土地理院刊行の1/50,000地形図(十勝池田・常室・糠内・浦幌)を使用しました。元図の25%に縮尺、十勝川などに着色) | 昭和20年ごろ。左の地図と同じ範囲。新水路(水色)ができている。(この地図は国土地理院刊行の1/50,000地形図(十勝池田・常室・糠内・浦幌)を使用しました。元図の25%に縮尺、新水路に着色) |